2016年

11月

01日

追悼:プミポン・タイ国王 2016年11月1日号

 ◇政治の安定の要

 

樋泉克夫

(愛知大学教授)

 

 タイのチャクリ王朝9世のプミポン国王が10月13日、88歳で逝去した。ワチラロンコン皇太子(64)は10月中に10世王に即位する見通しだが、実質的に王位を継承する戴冠式は1年ほど先になる予定だ。戴冠式までの間、プミポン国王と共に1980年代以降のタイの政治・社会の安定に腐心してきたプレム枢密院議長が摂政として王制を支えることになる。

 タイ政治の安定の「要」として重要な役割を果たしてきたプミポン国王死去の影響は大きい。

 プミポン国王は46年に18歳で即位した。70年代初頭までは国軍指導者による強力な独裁体制の下、象徴的存在として振る舞っていた。だが、73年に学生が決起し独裁体制反対の声を上げるや、国王は彼らの行動を「是」とし、長かった軍事独裁時代に幕を下ろさせた。

 しかし、社会の安定のためには、国軍との融和は必須だった。このため数年後、国外追放されたかつての国軍指導者が僧侶として帰国意思を示すや、国王は許している。

 国王が政治的旗色をより鮮明に打ち出したのは、81年4月に若手将校中心のクーデターが勃発した時だ。国王は、明確な形でプレム首相支持を表明し、クーデターを失敗に終わらせただけでなく、国軍内の反プレム勢力の行動に「ノー」を突きつけた。かくしてプレム首相は88年まで長期政権を維持する一方で、国軍内に築いた支持基盤を背景に、枢密院議長として国王を補佐し続けた。

 

 ◇王の「威徳」継げるか

 

 だが85年9月、プラザ合意(ドル高是正の合意)によって急激に力を増した円が集中豪雨的に投資されたことで、タイの社会構造に地殻変動が起きた。第二次大戦後、一貫して社会を支えてきた「ABCM(王室、官界、財界、国軍)複合体」と呼ばれるエリート層に対し、プラザ合意を機に起こった高度経済成長の中で生まれた新興企業家や中間層が発言権を求めるようになったのだ。

 新旧勢力は政治体制をめぐって対立を深めた。ABCM複合体が「国王を元首とするとするタイの民主主義」を掲げ、既得権益の防衛に回った一方で、新興勢力や中間層は新しい社会にふさわしい「(国王が政治に関与しない)制限のつかない民主主義」を求めた。共に「民主化」を掲げながら、妥協点を見いだすことはなく、21世紀に突入。2005年末から10年ほど、反タクシン派は国王を象徴する「黄色」を、タクシン派は「赤色」をシンボルカラーに、バンコクの中心街で激しい街頭行動を繰り返してきた。

 新旧対立の最後の抑止力こそ、プミポン国王の威徳であった。その国王を失うという未曽有の危機を管理できる組織は、国軍を除いて考えられない。国軍を従えたプラユット暫定政権は、国内安定に最大限の努力を払い、つつがなく皇太子に王位を継承させるはずだ。

 ただ、プミポン国王が長年にわたって築いた和解と融和の象徴という国民的合意を、ワチラロンコン皇太子が受け継ぐことができるのか。国民の目に新しい国王像が示されていないゆえに、将来への不安は消えそうにない。新国王の振る舞い次第では、国内対立の再燃が懸念される。(了)

2016年

9月

06日

追悼:むのたけじさん・ジャーナリスト 2016年9月6日号

 ◇平和を訴え続けた70年

 

金井暁子

(編集部)

 

 従軍記者として経験した第二次世界大戦の教訓から、平和を訴えてきたジャーナリストのむのたけじ(本名・武野武治)さんが、8月21日に老衰のため亡くなった。101歳だった。

 編集部は今年3月、むのさんにインタビューした。さいたま市にある次男・大策さんの自宅で会ったとき、顔色もよく、足が不自由なこと以外は非常に元気だった。はっきりとした口調で、その場にいた誰よりも大きな声で力強く、その半生と今思うことを語ってくれた。

 むのさんは従軍記者として2度戦地に行っている。1度目は、1940年に日中戦争最中の中国。2度目は、42年に日本と連合国が戦うインドネシアのジャワ島。インタビューでは、戦時中に新聞社が反戦を唱えることができなかったことを悔いるとともに、一度戦争が始まると、民衆や新聞社の中でも言論の相互監視や自己抑制が行われたことを説明した。そのため、戦争は起きる前に防ぐことが一番大切だと力説した。

 日本が降伏することを知った後の45年8月14日に、むのさんは戦争体験を反省して出直すために、ひとり新聞社を退社した。その後、48年に故郷の秋田県で週刊新聞『たいまつ』を創刊し、30年間、反戦平和や東北振興などを訴えてきた。特に憲法9条を守ることの大切さを主張し続け、9条は連合国が日本の交戦権を奪った「死刑判決」としながらも、「受け入れるしかない。本当に9条が世界平和の道しるべとなるよう若い人に考えてほしい」と話していた。今年5月3日の憲法記念日に東京で開かれた集会にも参加していた。

 むのさんを介護、看病してきた大策さんによると、最後まで日本のことを憂えていたという。7月10日の参議院選挙の結果、改憲勢力が3分の2になったことを聞くと、「残った3分の1の勢力は、相手が無視できないような新しい考えを作ることだ」と語っていた。また亡くなる4日前に、言いたいことがあると声を録音させた際にも、発言は聞き取れないものの「日本が……」と気にかけていた。

 インタビュー時にむのさんは、過去に2度がんを克服したことを得意げに語ってくれた。そして、亡くなる時はほほえみながら死ぬのだと言っていた。大策さんによると亡くなる少し前「私の手を軽く握り、少し笑ったように見えました」と、見事それを実行した。ご冥福をお祈りします。

2016年

8月

30日

追悼:豊田泰光・元プロ野球選手 2016年8月30日特大号

 ◇「昭和の名遊撃手」

 

濱條元保

(編集部)

 

 また一人、「昭和の名選手」が逝った。元プロ野球西鉄ライオンズ(現西武)内野手で、評論家の豊田泰光さんが8月14日、81年の生涯を閉じた。

 シャイなあまのじゃく、斜に構えているが、男気がある孤高の野球人──。豊田さんと交わした会話やお酒を思い出すと、「昭和の名選手・名評論家」の姿が浮かぶ。

 1952年、茨城・水戸商業高校で夏の甲子園に出場。翌53年に立教大学への進学が決まっていたが、父親が倒れ6人兄弟の長男として一家を養うために西鉄に入団した。「俺が進学していたら、(1歳下の)長島(茂雄、元巨人)の立教入りもなく、今の長島はなかった」と笑い飛ばした。

 高卒ルーキーでいきなり、守備の要である遊撃を任された。1年目に45エラー。名将・三原脩監督から「下手くそ! やめてしまえ」と自軍ベンチからやじが飛ぶと、「そんな下手くそを使っているのは誰だ」と、豊田さんはグラウンドから怒鳴り返した。

 ふてぶてしい新人だったが、自分のエラーで負けた53年4月12日。宿舎へ戻ろうと乗り込んだバスの中から先輩に蹴り出された。「辞めて田舎に帰りたかった。しかし、それでは兄弟を食わせられない」と涙をこらえて、猛練習。1年目に放った27本塁打は、清原和博(元西武など、86年に31本)が破るまでの新人記録である。以来、不動の2番・遊撃手となる。

 平和台球場でファンからやじられると、逆ににらみ返したという武勇伝は、「下を向いていたら飛んでくるビール瓶をよけられないから」と、ちゃめっ気たっぷりに語った笑顔が忘れられない。

 相手の気持ちを察したり、ファンの大切さは三原監督から学んだ。試合前、三原さんはベンチ前に選手全員を集め、回れ右させ、観客席を見させたという。「トヨ(三原さんの豊田さんの呼び方)、今日は何人ぐらい入っている?」と、よく三原さんから豊田さんは聞かれた。「ファンあっての野球。球場に足を運んでもらえる価値ある試合をやれ」という意味と豊田さんは解釈した。

 監督やコーチになりたいあまり、厳しい指摘ができない「待機組OB」と違い、ユニフォーム(監督、コーチ)への未練を断ち切った「評論家・豊田」の舌鋒(ぜっぽう)は鋭かった。ベンチのサインを徹底したり、守備位置まで細かくコーチが指示する管理野球は特に性に合わない。「高校野球でもあるまい。プロなら選手自身が考えてプレーしろ」と吐き捨てた。

 球団を引き継いだ西武が、西鉄時代の功労者や記録を大事にしないことに対する怒りは凄まじかった。豊田さんの訴えが通じ、2012年に名投手で盟友の稲尾和久さんの背番号24が球団初の永久欠番に。その記念試合に全員が「24」をつけた西武ナインの姿に豊田さんは涙した。

「今のようなプロ野球は、なくなったほうがいい」。近鉄とオリックスの合併が急浮上した2004年、本誌に吐露した豊田さん。野球を愛してやまない男のあまのじゃくな心の叫びは悲痛だったが、野球愛が詰まっていた。合掌。

2016年

5月

24日

追悼:竹内宏・長銀総合研究所元理事長 2016年5月24日特大号

 ◇日本経済解き明かす『路地裏の経済学』

 

田中隆之

(専修大学教授、元長銀総合研究所主任研究員)

 

 竹内宏さんは、高度成長期から最近までの日本経済を論じ、経済書の出版や新聞・経済誌への寄稿、テレビ出演で活躍した民間エコノミストである。代表作『路地裏の経済学』(1979年)は、日本長期信用銀行(現新生銀行)の調査部長時代に、地道な聞き取り調査に基づいて、当時の日本経済をわかりやすく解き明かし、ベストセラーになった。

 66年に出版された『電気機械工業』は学界でも注目された。電気機械は高度成長期後半からの日本のリーディング産業であり、この本は後に多くの研究者に引用されている。高度成長期からバブル崩壊までの間、日本の産業調査は銀行の調査部が担っていた。竹内さんは、長銀の産業調査の礎を築いた一人だった。

「竹内経済学」の一つのポイントは、経済理論では説明できない経済現象をどう説明するか、にあったように思われる。朝日新聞への連載記事を整理・加筆した『柔構造の日本経済』(78年)では、当時の日本経済の強みを「見えない人情の手」、欧米との「風土の差」「士農工商的バランス」などに見いだし、多くの知識層の共感を得た。

 そうした着想の背景には、旺盛なフィールド調査の裏付けがあった。国内の産業・地域調査は言うまでもなく、当時まだ日本人があまり訪れることのなかったアラブ諸国や中国へも先駆的な海外調査を行っている。その成果は『素顔のアラブ産油国』(75年)、『民族と風土の経済学』(81年)などにも示されている。

 

 ◇郷土愛

 

 多くの女性エコノミストを育てたことも、特筆されるべきだろう。男女雇用機会均等法施行(86年)前の時代、調査能力を発揮した担当職の女性たちを総合職との中間に位置する「専担職」に引き上げた。89年の長銀総合研究所設立後は、女性を研究者として積極的に採用した。

 私は81年に長銀に入行、竹内さん率いる調査部に配属された。そこで驚いのは、竹内さんがほぼすべての部員の出身地を記憶していたことだ。長野県出身の私は当初「長野の人」であり、名前で呼ばれるようになったのは、2~3年後のことだ。竹内さん自身は静岡県清水(現静岡市)の出身で、「清水は都会。他は全部田舎だ」と笑い飛ばしながら、私のような「田舎者」に声をかけるのが好きだった。郷土愛の人一倍強い人だった。

『各県別路地裏の経済学1~6』(86~89年)は、竹内さんのこうした地域センスをベースに、47都道府県別に産業・経済を網羅し、歴史や風土にも目配りして描いた労作だ。もちろん第1章は静岡県。今でも地域経済調査の基礎資料として参考になる。

 98年に長銀が破綻した後は、地元の静岡県立大学グローバル地域センター長などに就き、自らもシンクタンク「竹内経済工房」を立ち上げて、かつての仲間と精力的に調査活動を続けた。

『エコノミストたちの栄光と挫折─路地裏の経済学最終章』(2008年)では、日本経済の軌跡と、それに民間エコノミストがどうかかわったかが回顧されている。長銀調査部は、かつてはサービス産業や都市政策をはじめとする調査で銀行の融資に貢献した。だが、バブル時に地価と株価が「水ぶくれ」であることを的確に言い当てたり、不良債権の急増から銀行が経営危機に陥ることを予測するリポートを出していたにもかかわらず、それを経営に反映させることができなかった。同書には、これらが淡々とつづられている。

 戦後日本経済とともに歩んできたエコノミストが逝った。いま日本経済は停滞したままで、低成長やデフレからの脱却の道筋が見えない。財政再建や社会保障改革が課題となるなか、金融政策は迷走している。

 竹内さんの逝去をきっかけに、「エコノミストたち」は挫折したままではならないと強く思う。長銀調査部で竹内さんにたたき込まれたのは、データやヒアリングを基に事実を発見する「ファクトファインディング」だ。その地道な作業に加え、経済を取り巻くさまざまな事象にも竹内流に目を配ることで、何かが見えてくることを祈らずにはいられない。

 

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 ■人物略歴

 ◇たけうち・ひろし

 1930年静岡県生まれ。54年東京大経済学部卒、同年日本長期信用銀行に入行。調査部長、常務、専務を経て89年に長銀総合研究所理事長就任。98年に退職し、「竹内経済工房」を設立。

2016年

5月

24日

追悼:石井久・立花証券元社長 2016年5月24日特大号

 ◇スターリン暴落当てた兜町の風雲児

 

和島英樹

(ラジオNIKKEI記者)

 

 石井久さんの足跡は二つある。一つは投資家としての側面。もう一つは証券業界での経歴である。

 投資家としての石井さんは戦後のインフレ時に反物などへの投資を行い、その後はほぼ一貫して株式投資で財をなした。証券会社の外務員時代、無給の新聞記者時代、さらには証券会社の経営者になってからも的確な相場見通しを基に利益をあげた。

 

 1923年、福岡県大野村(現大野城市)に生まれた石井さんは、小学校を出た後に鉄工所勤務を経て弁護士を目指して上京。警官を経験した後に、株式投資に進路を切り替え、48年、25歳で証券会社の歩合外務員となる。歩合外務員とは、客の売買で発生した委託手数料に応じて給料をもらう証券マンである。

 この間、戦後のインフレを反物を売買してしのぐなど相場観を磨いてきた。外務員として働く一方で、自らも株式に投資した。現在の証券会社の社員は、株式売買が規制されているが、当時はむしろ「売買したことのない者にマーケットを語る資格はない」という時代だった。外務員時代に知り合ったエコノミストの高橋亀吉氏との出会いが、経済の知識を深めるきっかけになった。

 

 ◇独眼流の的確な予想

 

 外務員の傍ら、49(昭和24年)年8月から創刊間もない株式新聞社(現モーニングスター)に記者として入社した。しかし、外務員だった石井さんは「専属にならないので、給与はいらない」「編集を任せてもらう」という条件もつけた。

 紙面では「独眼流」のペンネームでコラムを掲載。その年のドッジデフレ(戦後不況)での株価下落や翌50年6月からの朝鮮戦争による株価上昇などを的確に予想した。記事や講演での見通しの確かさを背景に、『株式新聞』の部数も急拡大し、ピークには部数が12万部と創刊当初の20倍に膨らんだ。筆者が株式新聞に在籍していた80年代後半は日本がバブル経済に沸いて、部数も伸びたが、当時の先輩は「石井さんが在籍していた時の部数には届いていない」と語っていた。いかに投資家が石井さんを熱狂的に支持していたかがわかる。

 独眼流の名声をとどろかせるコラムが掲載されたのは53年2月11日、「桐一葉・落ちて天下の秋を知る!」である。それまで熱狂していた株式市場に、朝鮮戦争の和解の動きを見た石井さんは、わずかな前兆からその後の株価下落を予想した。

 記事の掲載を巡っては、社内でも議論になったというが、「退却ラッパを吹く」ことを、記者を引き受ける条件としていた。実際にコラムを読んだが、感情的に売り抜けろという内容ではなく、経済状況を分析した冷静な記事だった。3月、ソ連のスターリンが死去し、休戦会談の再開提案などを背景に株価は暴落する。のちに命名された「スターリン暴落」である。記事の掲載後、約2カ月でダウ(日経平均)は38%の下げになった。この記事が評判を得る一方で、相場を壊した張本人などの誹謗(ひぼう)中傷を受けた。これを契機に記者生活に終止符を打った。

 直後に石井株式研究所を設立し、個人投資家に情報を発信。そして同年9月に江戸橋証券を設立し、57年には東京証券取引所正会員だった立花証券を買収。投資情報誌『立花月報』を創刊し、石井社長の相場観測を顧客に伝えていった。

 江戸橋証券のスタート時に13人だった社員数は立花時代のピークに1000人以上(現在は520人)となり、財務の健全性で業界トップクラスに成長した。後の証券不況や、オイルショック、バブル崩壊も乗り切ってきた。規模の利益は追わず、立花証券では昔も今も自己売買部門、すなわち会社のお金で相場を張る部門の比重は極めて低いという。

 石井さんが一貫していたのは、歩合外務員時代も、記者時代も、証券会社のオーナーになってからも、個人投資家に向き合っていたことである。現在の証券会社は株式よりも収益が安定する投信や保険などの販売に力を入れている。そうした風潮をどう思うか、一度、直接石井さんに聞いてみたかった。証券界にとって不世出の人物が逝ってしまった。

 

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 ■人物略歴

 ◇いしい・ひさし

 1923年福岡県筑紫郡大野村(現大野城市)生まれ。53年3月に石井株式研究所を設立、同9月に江戸橋証券を設立。57年に立花証券を買収、社長、会長を歴任し、2000年取締役相談役、11年取締役を退任。16年4月22日死去。

2016年

1月

26日

追悼:デビッド・ボウイさん死去 音楽ビジネスの革新者

デビッド・ボウイさん(1973年5月撮影) ゲッティ=共同
デビッド・ボウイさん(1973年5月撮影) ゲッティ=共同

 ◇著作権を証券化

 

八木良太

(尚美学園大学芸術情報学部准教授)

 

 世界的ロック歌手のデビッド・ボウイさんが1月10日に死去した。享年69歳。ボウイはアルバム『ジギー・スターダスト』(1972年)でデカダンス(退廃・耽美(たんび))の美学を追求するグラムロックの旗手として注目を集め、80年代に「レッツ・ダンス」や「チャイナ・ガール」などの世界的ヒットにより名実ともにロックスターの地位を築いた。時代とともに変化し続け、常に新しい音楽スタイルを提示してきたロックのイノベーター(革新者)は、音楽ビジネスの世界においても同様だった。

 音楽ビジネスは知的財産権の保護・活用が成功の鍵を握る。しかし、多くのアーティストはその活用についてレコード会社や音楽出版社まかせで基本的に無関心だ。ボウイは違った。自らの権利をコントロールすることに長(た)け、革新的な知財マネジメントを実践した数少ないアーティストの一人だった。

 97年、ボウイは自らの楽曲(初期25枚のアルバム)の著作権(作詞・作曲の権利)とレコード原盤のアーティスト・ロイヤルティー(印税)を担保に「ボウイ債」と呼ばれる債券(資産担保証券、ABS)を発行して、5500万ドル(約65億円)の資金を調達した。アーティストが自らの著作権を証券化するはじめての試みだったという。

 ボウイ債の当時の利回りは7・9%(期間10年)で、米格付け会社ムーディーズは投資適格級のA3に格付けして信用力のある債券と認めた。音楽業界全体の不振により、2004年にボウイ債は投資適格級では最も低いBaa3に格下げされたが、ABS市場の活性化に一役買ったと言われている。

 ボウイ債を発行した理由は明らかにされていない。推測するに、当時はアルバムの売り上げが不振でレコード会社との契約更新が難航し、次回作の制作・発売のめどが立たない状況にあり、継続的かつ安定的な創作活動を行うための基盤となる自主レーベル設立の資金が必要だったと考えられる。事実、後に自身のレーベル「ISO」を立ち上げ、アルバム『ヒーザン』(02年)をリリースしている。

 

 ◇音源をオープン化

 

 権利活用の進取的な取り組みはビジネス面だけにとどまらない。04年、ボウイは自動車会社アウディと共同で「デビッド・ボウイ・マッシュアップ・コンテスト」を開催した。一般参加者がネット上に公開されたボウイの楽曲の音素材を自由に利用して新しい楽曲を制作し、優秀曲を決めるものである。ボウイとコンテスト参加者との協働作業で、インターネット時代の新たな形の音楽制作として注目を集めた。

 アーティストが作った楽曲に他者が手を加えて改変することは著作権の侵害行為にあたる。だが、ボウイは音楽制作の革新的な試みとして他者(それもアマチュア)による改変を認めて、それをファンとともに楽しんだ。

 ボウイは、権利の活用を従来のビジネスモデルの枠組みで完結するのではなく、著作権の証券化で音楽業界の資金調達モデルを提示し、新しい音楽創造の可能性を開くために柔軟な著作権運用を試みた。失敗や変化を恐れず、常に新しいことに挑戦し続けるロックスターであり、すべてにおいてイノベーターであった。(了)

 

(『週刊エコノミスト』2016年1月26日号<1月18日発売>15~16ページより転載)

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2015年

12月

15日

追悼:水木しげるさん「面白い話が作れるかがすべてだよ」

藤枝克治

(編集部)


 漫画家の水木しげるさんが11月30日、93歳で亡くなった。本誌はかつて水木さんに生き方や漫画などについてロングインタビューを行い、そのエッセンスを掲載したことがある。その時は紹介できなかった話を交えて、冥福を祈りたい。

 水木さんは、最近の漫画について、「絵はうまいけど、話がつまらないものばかり」と手厳しかった。大切なのは、面白い話が作れるかどうかで、いくら絵の練習をしてもダメ。「自分は漫画家にならなくても、小説家になれば直木賞が取れた」と自信満々だった。

 漫画界の巨匠といえば手塚治虫さん。水木さんにとってはどんな存在なのか、ライバルだったのか、と尋ねたら、「なんかじゃまだな、と思ってたら先におっ死(ち)んだ」と、本音ともジョークとも付かない発言で皆を笑わせた。

 戦争での悲惨な体験はよく知られている。南太平洋のラバウルで、歩哨に立って望遠鏡で敵を探していた。見つからないので、きれいな色のオウムに見とれていたら、背後で機銃掃射の音がして、振り向いたら小隊が全滅していた。1人で3日間ジャングルを逃げ回りようやく助かったという。それでも「もう駄目だなんて思わなかった。たまたまではなく、生き残ると決めていたから死なずに済んだ」。

 話を聞いた当時、自衛隊を平和維持活動(PKO)でイラクへ派遣すべきかどうかが議論になっていた。苛烈な戦争体験を持つ水木さんはどう思うか、自衛隊を戦地に送ることには反対ではないか、と内心思いながら聞いた。すると、「戦争は絶対なくならないし、戦争に行けば兵隊の一匹や二匹、死ぬのは当たり前。大騒ぎする方がおかしい」と話した。周囲が慌てて「今の発言は載せないでください」と言う一幕だった。

 子供の頃に「自分のやりたいことしかしない」というルールを作り、一番やりたいのは絵を描いて食べていくことだから全く迷いはなかったという。若い人には「苦手なことでお金をもうけることはできない。好きじゃない仕事に追われたら、貧乏神に取りつかれる」とアドバイスしてくれた。

 最後に水木さんに怒られた話を一つ。

 興味本位で「水木さんは死んだらどんな妖怪になるのか」と尋ねたら、「何を言ってるの」とぴしゃり。お前はまったく分かっていないという顔で私たちをじっと見て、「この世界には、人間と動物と妖怪の三つがいるの」、と諭すよう説明してくれ、「人間は死んだら幽霊になるの」。

 そうだったのか。その時、初めて水木ワールドが理解できた(ような気がした)。幽霊になった水木さん、たまには遊びにきてください。妖怪たちも待っていますよ。(了)

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2015年

8月

25日

追悼:「ミサイル開発の父」 カラム元インド大統領死去

中島敬二

(元インド政府アドバイザー)


 2002年から07年にわたって大統領を務めたアブドル・カラム氏が7月27日、心不全のため急逝した。享年83歳。インド政府は7日間喪に服すことを宣言し、モディ首相は哀悼の意を示した。

 カラム氏は貧困家庭で育ち、科学者として大成した。軍事・航空の専門家として宇宙開発研究所などでインド初の人工衛星の打ち上げに関わったほか、1998年の核実験では中心的役割を果たしたといわれている。「ミサイル開発の父」と称されることも多い。

 大統領任期中は「庶民の大統領」として国民に愛された。インドの大統領は国家元首ではあるが、象徴的な存在という意味合いが強く、実質的な政治の権限は首相にある。とはいえ、首相や州知事の任命権や、陸・海・空軍の統帥権など多くの権限を持つ。州の政治や治安が混乱すると、その州を一時的に大統領の直轄下に置き、事態の収拾を図る権限もある。このため、5年ごとに大統領の改選が行われるたび、候補者の選出が政党間の政治問題になりやすい。だが、カラム氏は国民の人気もあり、与野党双方から支持されて選出されるという異例の人事だった。

 私生活では厳格な規律を守り、絶対禁酒主義、禁欲主義を実践し、タミル文学の古典詩集の研究でも活躍した。晩年は若者の教育にも情熱を注いだ。

2015年

8月

04日

追悼:独創的理論と実証で経済を解く 青木昌彦氏死去

 ◇マル経から比較制度分析へ


橘木 俊詔

(京都大学名誉教授)


 青木昌彦・米スタンフォード大名誉教授=写真=が7月15日、77歳で人生の幕を閉じた。素晴らしい学問的な業績のみならず、学界・社会活動でも華やかな生活を送られた人生を振り返ってみたい。

 一言で要約するなら、英語でいう「flamboyant(華麗な)」人生ということになろうか。私との個人的な関係は、京都大学において昔の講座制の下で青木教授・橘木助教授という師弟関係であったので、公私ともにお世話になった。

 まず人生を語れば、育ちは今でいう湘南ボーイであり、カッコよく生きる姿が自然に育っていた。東京大学経済学部ではマルクス経済学を専攻し、当時の学生運動の幹部であったことは皆の知るところである。姫岡玲治のペンネームでアジ論文を書いていた。北大生で当時のスター闘士・唐牛(かろうじ)健太郎氏と親交のあったことをよく話してくれた。

 マル経を離れて対極の近代経済学を勉強するためアメリカに渡り、ミネソタ大で博士号を取得してから、スタンフォード大、ハーバード大で教えた。近経への転向については今でも昔の仲間から批判の声があるが、先生なりの根拠があって意に介していなかった。日本に帰国後は京大で研究生活を送ってから再びスタンフォード大に移り、そこで大学生活から降りた。

 しかし日本は先生のことを放っておかず、経済産業研究所の所長に招いて、役所での研究に指導的役割を果たした。ここで書かれた大学名はトップ級の大学ばかりであるし、名誉としても日本経済学会会長、IEA(国際経済学連合)の会長を日本人としては都留重人・元一橋大学学長に次いで2人目として務めた。

 学問的業績については、高年時代における比較制度分析が輝いているが、これは他所でも語られていることなので多くを書かない。むしろ、若年・中年の頃の業績について書いてみたい。Ph・D論文では一般的均衡論の枠組みの中で、収穫逓増や外部経済の存在下において、解が存在するのか、あるいは分権的計画が可能なのか、といった課題を、先駆者であるレオニード・ハーヴィッツ・ミネソタ大学教授(2007年ノーベル経済学受賞)の下で解明して、「アオキあり」を世界の学界に知らしめた。


 ◇日本経済の強さ証明


 次の仕事は、当時の日本経済が強い時代に、そのメカニズムを理論と実証で解明したことである。労働における年功序列制と終身雇用制、資本におけるメインバンク制と株式持ち合い制を「制度的補完」というキーワードによって、なぜ日本経済が強くなったかを見事に証明した。

 特にゲーム理論を用いての証明手法に独創性があった。私も青木プロジェクトの一員としてこの実証分野でささやかながら貢献できたことは幸せであった。日本経済が繁栄を続けていればノーベル経済学賞を取れたかもしれなかったが、その弱体化によって受賞可能性が低下したことは残念であった。

 その後は視野を世界に拡大して、中国やアジア・中東諸国・旧東欧諸国までを含めた比較制度分析へと移っていった。経済体制の比較という壮大な研究プロジェクトは、ほぼ完成期にまで至った仕事とはいえ、まだ多少の心残りがあったろうから、道半ばで終了したことは無念である。

 思い出と言えば、先生は野球は私と同じくトラファンで、時折甲子園球場までご一緒した。西宮生まれの私は当然としても、湘南ボーイがなぜ阪神なのか、巨人を体制派とみなしての反抗心の強さから、と想像していた。


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 ■人物略歴

 ◇あおき まさひこ

1938年生まれ。62年東京大学経済学部卒、64年同大大学院修士課程修了。67年米ミネソタ大学で博士号を取得。米スタンフォード大、米ハーバード大、京都大学教授などを歴任した。97~2004年に通商産業研究所(現・経済産業研究所)所長に就任。08~11年に国際経済学連合(IEA)会長を務めた。理論経済学における「比較制度分析」の分野を確立し、国・地域で異なる経済システムと、それが採用されるメカニズムの解明に尽力した。日本人で初のノーベル経済学賞の有力候補とされた。(編集部)


2015年

7月

28日

追悼:「ロシアの巨人」プリマコフ元首相死去

杉尾 直哉

(毎日新聞モスクワ支局)


 ロシアのエリツィン政権で外相、首相を歴任したエブゲーニー・プリマコフ氏=写真中央=が2015年6月26日に85歳で死去した。「ソ連崩壊後の混乱期から国を救い、欧米諸国との対立を強める今日のロシア外交の基盤を築いた」と評価される人物だ。

 今でも語りぐさとなっているのは、1999年の訪米キャンセルだ。プリマコフ氏は政府専用機で大西洋上を移動中、北大西洋条約機構(NATO)の旧ユーゴスラビア空爆を知り、抗議の意を示すため、モスクワに引き返した。

 常に「強いロシア」を意識した人物だった。2007年の国際会議で、「ソ連崩壊後、米露は主従関係にあったがそんな時代は終わった。米国は我々と対等に付き合うことを学ばざるを得ない」と演説していたのを筆者は覚えている。


 ◇西側へ対抗心新たに


 プーチン大統領は6月29日に大々的な国葬を営んだ。告別式はレーニンらソ連の指導者の葬儀が行われた同盟会館で、数千人が訪れた。修道院での遺体埋葬式ではプーチン氏ら要人が勢ぞろいした。ラブロフ外相は素手で土をすくい、 何度もひつぎにかけた。その一部始終が国営テレビで生中継された。

「ロシアの巨人」の死は、プーチン政権にとって、国民の愛国心を高める仕掛けの一つとなったのは間違いない。プーチン氏は西側諸国の経済制裁にも屈しない決意を新たにしたはずだ。

2015年

6月

16日

追悼:ゲーム理論の天才、ジョン・ナッシュ氏死去

写真:共同通信


田代 秀敏

(シグマ・キャピタルチーフエコノミスト)


 経済分析に今や欠かかすことができない数学的道具であるゲーム理論において、創始者ジョン・フォン・ノイマンに優るとも劣らない天才であったジョン・F・ナッシュ2世(以下、ナッシュ)は、2015年5月23日、米国ニュージャージー州で死去した。1928年6月生れであったから86歳であった。


◇94年にノーベル経済学賞を受賞


 ナッシュは、1994年にノーベル記念経済学賞を受賞した。選考理由は「非協力ゲームの理論における均衡の先駆的な分析」であった。


「非協力ゲーム」とは、約束に拘束力が無い状況を数学的に抽象化したものであり、その「均衡」とは、各々の行動主体(ゲーム理論では「プレイヤー」と呼ばれる)が、互いに相手の行動プラン(ゲーム理論では「戦略」と呼ばれる)を読み合って自分の利得(ゲーム理論では「ペイオフ」と呼ばれる)を最大にしようと自分の行動プランを選択した結果である。この均衡は今では「ナッシュ均衡」と呼ばれ、経済学の応用分野でも分析に欠かせない概念となっている。

 ナッシュ自身のゲーム理論に関する業績は、21~22歳であった1949~50年に執筆した4本の論文である。どれも世界で最も権威のある学術雑誌に掲載された。


◇N人ゲームの均衡点


 その中で最も頻繁に引用されてきたのは、博士論文「非協力ゲーム」の一部の数学的要旨である「N人ゲームの均衡点」であり、『ネイチャー』や『サイエンス』と並び世界で最も権威ある総合学術雑誌『米国科学アカデミー紀要』に1950年に掲載された。

 実質1ページの極めて短い論文であったが、非協力ゲームの一般的な理論モデルを厳密に定義し、日本人の世界的な数学者である角谷静夫(1911~2004年)が1941年に証明した不動点定理を用いて、非協力ゲームにナッシュ均衡が少なくとも1つ存在することを証明する数学的手法は、1954年にケネス・アロー(米、1921年~)そしてジェラール・ドブリュー(仏、1921~2004年)の2人の経済学者によってそのまま借用され、19世紀以来の古典的な完全競争市場経済モデルにおいて各市場の需給が同時に均衡することの数学的な証明をもたらした。

 これは「一般均衡理論」と呼ばれる重要な研究分野の礎となり、そこから二階堂副包(1923~2001年)、森嶋通夫(1923~2004年)、宇澤弘文(1928~2014年)、根岸隆(1933年~)などの日本人の数理経済学者達が世界的な業績を残していった。

 アローは1972年に、ドブリューは1983年に、それぞれノーベル記念経済学賞を受賞したのに対し、ナッシュの受賞が1994年と大きく遅れたのは、2001年の映画『ビューティフル・マインド』で描かれたように、1959年から1980年代半ばまで、ナッシュが統合失調症を患ったからであった。

 1950年の博士論文「非協力ゲーム」は、1948年9月にプリンストン大学大学院の数学科に20歳で入学したナッシュが、僅か1年と2カ月で完成したものであり、若干異なる内容が、数学の世界で最も権威ある学術雑誌のひとつ『アナルズ・オヴ・マセマティクス』に1951年に掲載された。非協力ゲームによって表現される経済や社会の問題を分析するための一般的な枠組みが構築されており、正に革命的な業績であった。

 長らく公開されなかった博士論文には、後に発展した進化論的ゲーム理論や限定合理性理論のアイデアが記されているが、参照文献に挙がっているのは、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンとが協力ゲームを分析した『ゲームの理論と経済行動』(1941年)、そして上記1950年の『米国科学アカデミー紀要』掲載の自分の論文だけであり、ほぼ独力で非協力ゲームの理論を構築したのであった。

 しかし、ナッシュは考察を更に深め、拘束力のある約束に基づく協力や提携を形成する交渉のプロセスそのものを大きな非協力ゲームとすることで協力ゲームを自分が開発した非協力ゲームの理論によって分析し、非協力ゲームと協力ゲームとの双方を包摂する「ゲームの一般理論」を構築するという壮大な研究プログラムを提示した。

 この「ナッシュ・プログラム」は、利害の対立と協力とが複雑に絡まり合う状況を解明する経済・社会の一般理論の方法論的基礎であり、アダム・スミスやデヴィッド・リカード等のかつての偉大な経済学者達が目指した「政治経済学」を可能にする、正に画期的なものである。


◇時代を先駆けすぎた研究


 しかし、ナッシュ・プログラムを提示した論文「交渉問題」および「2人協力ゲーム」は、どちらも経済学の世界で最も権威ある学術雑誌のひとつ『エコノメトリカ』に掲載されたものの、時代を先駆け過ぎた内容であったため、経済学者によって発展されることは少なく、今日に至るも未完のままである。

 筆者はナッシュと1997年にイタリア・ミラノで、2002年に中国・青島でそれぞれ開催された国際学会で話した。

 ミラノでは、ナッシュ均衡に関する様々な研究報告をずっと黙って聴いていたナッシュが、筆者のナッシュ均衡の計算可能性に関する報告にだけ質問した上に、その後の晩餐会で、ナッシュはほとんどの時間、筆者とだけ純粋に理論的な議論を深夜までした。

 青島で会った時、ナッシュは筆者を覚えており、持参したカメラで筆者を撮ってくれた。あの写真はナッシュ家のアルバムのどこかに貼られているのだろうか。

 どちらの時も、ナッシュはカジュアルな服を着、コンバースのバスケット・シューズを履き、ヴァージニア・スリムを吸う、常に温和な表情で、少しも気取らない人柄だった。

 ミラノの学会では、ナッシュのプリンストン大学以来の親友であるハロルド・クーン教授がゲーム理論の50年を回顧する講演を行なった。その中で、プリンストン大学の大学院に提出されたナッシュを推薦する文書には「This boy is a genius(こいつは1人の天才である)」と1行だけが書かれていたが、ナッシュが入学すると直ぐに、教授達も大学院生達も、冠詞の「a」も「the」もいらない「This boy is genius(こいつの他に天才はいない)」だと分かったと話していたが、ナッシュは正にその通りの天才であった。

 ナッシュは純粋数学の分野でも重要な4本の論文を著しており、どれも『アナルズ・オヴ・マセマティクス』に掲載され、その業績によって1958年に数学で最も権威あるフィールズ賞の最有力候補となった。

 今年、数学では賞金が最高額のアーベル賞を受賞し、その授賞式が開かれたノルウェー・オスロからの帰途、空港からプリンストンの自宅へ向かう途中で乗ったタクシーが交通事故に遭い、夫人と供に死亡した。

 その死の3日前、ナッシュは、フィールズ賞を2010年に受賞した数学者セドリック・ヴィラニ(1973年~)に、相対性理論と量子力学との双方の基礎に関する自分の新発見を話し、ヴィラニはその発見に驚愕したと、英『タイムズ』が報じている。ミラノの学会の晩餐会で、自分の新しいアイデアを静かに、しかし情熱的に筆者に語っていたナッシュの姿が思い出される。