2013年

9月

10日

特集:「期待」の経済学 2013年9月10日号

 ◇「インフレ期待」って何? 分かりにくい理由

後藤逸郎/濱條元保
(編集部)

 「人々の経済・物価に対する期待は好転している」
 2年で2%のインフレ目標達成を目指す日銀の黒田東彦総裁は、8月8日の金融政策決定会合後の記者会見で、4月に始めた異次元緩和に対する手応えを口にした。

 安倍晋三政権の経済政策「アベノミクス」は「三本の矢」で成り立つ。「第一の矢」は黒田総裁が4月4日、打ち出した「異次元緩和」だ。「2年で2%の物価上昇」のインフレ目標実現のため、マネタリーベース(資金供給量)を倍増し、国債を銀行から買い上げ続けて長期金利の実質的な引き下げを行うことを柱とする。「第二の矢」である政府の財政出動と併せて日本経済の需要を支え、「第三の矢」である成長戦略で経済成長の加速を狙う。
 アベノミクスは昨年11月14日、野田佳彦首相(当時)による衆院解散宣言から事実上市場に織り込まれていった。日経平均株価は同日の8664円から上昇し、異次元緩和後の5月22日は1万5627円の年初来高値をつけた。為替も昨年11月の1ドル=82円前後から一時1ドル=103円台まで円安が進んだ。

 

 ◇常識と違う経済学の「期待」

 政府・日銀は、物価が上がるという予想で円安・株高が生じたとして、アベノミクスと異次元緩和の成果をうたった。経済学者や市場関係者の一部も政策の有効性をたたえた。
 だが、「期待(予想)すると、成果が生じた」という主張に、企業人を含む国民の多くは首をひねったのではないか。
「高校野球で、『甲子園を目指そう』と誓ったチームが、必ず出場できるわけではない」(日銀関係者)という説明の方が受け入れやすい。「期待(予想)は実現することもあれば、外れることもある」のが日常生活の常識だからだ。実際、企業はこれまで設備投資を目立って増やしていない。では、「期待」の経済学はデタラメなのだろうか。
 理解しなければならないのは、現在主流のマクロ経済学が期待(予想)から結果が生じる関係を「モデル化」しようと試みてきたということだ。このマクロ経済の世界では、経済を動かす「経済主体」がAという予想をすると、必ずBという結果にたどりつくことがルールとなっている。
 つまり、社会常識と経済学では期待(予想)の位置づけは異なるのだ。
 これは、能を鑑賞する時、その作法を知っているか否かということに近い。無表情の代名詞である能面は感情を押し殺しているように見えるため、作法を知らない人は何を演じているのかにわかには理解しにくい。しかし、少し顔を上げる動作「テラス」が笑み、 少し顔を下げて伏し目にする動作「クモラス」が悲しみや怒りなどを表すことを知っている人は、能の世界に感情移入しやすいだろう。経済学と能に共通するのは、ルールを共有していないと理解しにくいということだ。
 言葉の問題も小さくない。経済学の「期待」は英語のexpectationの訳語だ。日常語で使う「期待」がよい結果を望むという価値観を含んでいるのに対し、expect(単に予想)という意味に過ぎない。経済学のルールと言葉使いが一般社会と異なることが、混乱に拍車を掛けた。
 政府・日銀もこうした状況は把握している。にもかかわらず、スローガンを唱えているかのように見える「期待への働きかけ」を打ち出している。それはデフレのため、そうせざるを得ないというのが実情だ。
 15年に及ぶデフレ下で、日銀の政策金利は事実上のゼロ金利となっている。金利の上げ下げで、景気を調整する従来の手法は使えない。
 だが、「期待」の経済学の世界で、近年の標準理論であるニューケインジアン・モデルは「中長期の目標値に人々の期待が収斂(しゅうれん)する」という仮定を盛り込んでいる。モデル上は、中央銀行が強い目標を示すほどインフレ率がその目標で安定することになるルールだ。

 このため、日銀に限らず米連邦準備制度理事会(FRB)や欧州中央銀行(ECB)、英中央銀行(BOE)など、金利の引き下げ余地の乏しい中央銀行は、「期待(予想)」に働き掛けることで、インフレ率を高め、経済成長を促そうとしている。

 ◇外国人投資家の感応度

 こう考えると、アベノミクスと異次元緩和による円安・株高はある程度、説明がつく。
 株式投資の中心である外国人投資家は、中央銀行の大胆な金融緩和宣言→超低金利継続→リスク資産である株価上昇、さらに金融緩和→通貨安を連想し、日銀の異次元緩和に敏感に反応した。FRBによる3度にわたる量的金融緩和(QE)で、株高・ドル安を経験済みだからだ。政府・日銀の期待(予想)に従って、日本株買い・円売りポジション(持ち高)を構築していったと言える。
「中央銀行に逆らうな」──。絶対的な権力をもつ中央銀行に逆らっても、勝ち目(市場取引で利益をあげること)がないという市場の格言だ。
 市場関係者は金利を上下させる時代の中央銀行を身をもって知っている。だから、伝統的な金融政策が使えない状況となっても、期待に働きかけると言われれば、敏感に反応するのが外国人投資家を筆頭とする市場関係者だ。将来のインフレ率を予想して、物価連動債の金利が上昇するのも、感応度の高さ故だ。日銀は日銀で、市場が推測する期待インフレ率を表すブレーク・イーブン・インフレ率(BEI)の値が上昇しているのは、政策効果と主張する。
 だが、「期待」の経済学で主流のモデル化は、仮定と結果を厳密に分離しなければ、結論ありきの論理とも取られかねない弱点をはらむ。
 東京大学大学院の吉川洋教授は、現在のスタンダードなマクロ経済モデルが代表的企業や代表的個人、政府・日銀を真ん中に据えてそれを相似拡大したものをマクロとして捉えているだけ。現実には多数の個人や企業から構成するミクロコスモス(小宇宙)があり、さらにそのミクロコスモスが多数集まって構成するのがマクロと考えるべきとして、「日銀が期待に働きかけようとする経済主体は、実在しない」と断定する。
 行動経済学や実験経済学といった経済学内部からも、経済の一部を取り出してモデル化することへの批判は強い。一国全体の経済をたった1人の消費者あるいは企業の行動を代表させて分析することの非現実的さであり、そうした特定の代表者が常に合理的な期待をもつと仮定することの限界である。物価や賃金がすべて同じ割合で上昇したとき、実質物価は変わらなくても購買意欲を失ってしまう人が相当数いるという実験結果があり、人間は必ずしも合理的に行動しないと反証している。
 つまり、政府・日銀がアベノミクスと異次元緩和による「期待」の働きかけが機能し、円安や株高が進んだと言っても、経済学者同様に金融政策への感応度が高い市場関係者だけが、モデル通りに行動しているのかもしれない。
 市場と距離がある事業会社の経営者や一般ビジネスマン、主婦は、政府・日銀の顔色をうかがうより、目の前の物価が上昇し、収益が改善し、給料が増えた段階で初めて反応するとも考えられる。
 実際、外国人投資家はじめ市場関係者だけで盛り上がりを見せた株高も、5月23日の急落以降、乱高下気味で、8月29日は日経平均株価は1万3459円と約2カ月ぶりの安値水準にある。6月頃まで株高による資産効果から百貨店の高額商品を中心に売れ行きが好調だったが、7月に入り急ブレーキがかかった。
 政府・日銀が期待に働きかけるといっても、経済学のルールに必ずしも縛られるとは限らない企業や個人が反応しなければ、物価上昇は絵に描いた餅になる。一部の市場関係者だけでは円安や株高などの資産効果を持続できず、実体を伴った継続的な物価上昇は望めない。
 つまり、政府・日銀が描くアベノミクスと異次元緩和によるデフレ脱却は、企業業績が安定的によくなり、かつ安定的な賃金の上昇があって初めて実現する。それは第二、第三の矢を効果的に組み合わせなければ望めない。実行したところで、想定通りに機能するかは未知数だ。
 だが、デフレで追い詰められた政府・日銀はとにもかくにもアベノミクスと異次元緩和にすがるしかない。それが壮大な社会実験に終わるかどうかは、現時点で誰にも予想できない。