2013年

10月

22日

特集:宗教と経済2013 2013年10月22日号

 ◇宗教と経済2013 近代資本主義のあり方と日本経済への示唆

 

橋爪大三郎(社会学者)

大澤真幸(社会学者)

保坂俊司(比較宗教学者、中央大学総合政策学部教授)

 

 長く低迷してきた日本経済が、ようやく「アベノミクス」で息を吹き返しつつある。今だからこそ、真の経済発展、つまり多くの人々が幸福を感じられる経済発展の姿とは何かを考える必要がある。そこで、橋爪大三郎、大澤真幸、保坂俊司の3氏に、資本主義と宗教の関係や今後の日本経済の先行きを占う価値観や倫理・道徳の問題について語り合ってもらった。

 

 ◇不思議な資本主義

 

橋爪 資本主義が生まれたその土台にキリスト教、特にプロテスタンティズムがあったとは、マックス・ウェーバーの指摘である。なぜプロテスタンティズムだったのだろう。

 資本主義は、経済が政治や宗教から分離していて、それ独自の論理で動くべきだという考え方だ。逆に、経済でない領域に経済の出番はないと考える。例えば政治、宗教、家族、地域社会はそれぞれ、正義、真理、愛、連帯などの価値を備えていて、金銭に還元できないとされている。

 キリスト教には肉体と精神の分離、という考え方がある。人間にはスピリチュアルなレベルがあるからこそ、肉体に関わる経済にも専心できる。こうした割り切りを、プロテスタントが先鋭に貫いたので、資本主義が起動された。ウェーバーが唱えたのは以上のようなことでないか。裏返せば、こうした条件が崩れれば資本主義は正当化できなくなる。

保坂 つまりキリスト教、プロテスタントの倫理観が、近代経済の基本の精神を作ったということか。

橋爪 元はキリスト教が土台で資本主義がその上に乗っていたが、資本主義の方が大きくなり、関係が逆転した。経済はみんなが参加するゲームだが、宗教は特定の信仰にコミットする人々だけが集まる個別のゲームになっていったので、プロテスタンティズムの前提が保証されなくなる。米国では200年ほど前から、この前提が問われなくなり、資本主義は単なる世俗のシステムとして自律的に拡大するようになった。

大澤 橋爪さんの意見に賛成だ。近代の経済は、元にあった基本的な条件を崩すように発展してきた。今や経済があり、それとは異なる原理で動くような愛や文化や政治の領域があるというように、経済が一領域としてあるというシステムにはなっていない。経済はすべての領域にとってニュートラルで部分的な機能システムであり、そうであるがゆえに、他の領域の価値を経済的なインセンティブに置き換えることができるという幻想がある。家族や愛や宗教や政治や芸術などの他のシステムで起きていることは、市場の論理に翻訳できるかのように思われている。

 経済学者は、他のシステムの価値を市場の価値、経済的なインセンティブに翻訳しても、元の価値の本質的な性質は変わらないと思っている。むしろ、元の価値を普遍化するのに役立つとさえ考えている。例えば、「地球環境を守ろう」というのは、特定の人の価値観に感じられる。ここで、二酸化炭素の排出権を市場で取引できるようにすれば、すべての人の利害に関わる問題になる。しかし、この時、自然そのもののための、生命の多様性のための、あるいは将来世代のための崇高な行為だったものが、「地球を汚す権利」の取引という問題に変化している。つまり、経済的インセンティブに翻訳したとたんに、元の価値の道徳的な性質が致命的に失われる。

保坂 そもそも、何でもお金で算出できるという考え方がまかり通っているような気がする。お金が万能になる背景には、神が作ったというキリスト教的な創造神話のような発想があるのだろうか。

橋爪 God(神)が創造神だとは、すべては神のものだということ。だが、この考えから直ちに資本主義が生まれたわけではない。神のものかもしれないが放っておこうと、2000年ぐらい思っていたわけ。でも、禁止されていないのなら、自然を自由に自分のものにしてもいいんじゃないかと。特に米国には手つかずの自然がそのまま残っていたので、適当に線を引いて、自分たちのものにしてしまおうという動機がいちばん強く働いた場所だと思う。

保坂 米国では貧富の差が大きくなり、1%が99%の富を収奪しているとデモが起きた。近代の資本主義に限界が見えてきたのではないか。

橋爪 資本主義の限界がいずれやってくるとして、いま起きている程度のことは、まだずっと手前だと思う。

 19~20世紀、資本主義は地球上のごく一部で始まっただけで、大部分の人々はそこから取り残され、貧困と飢餓が蔓延(まんえん)していた。貧困と飢餓に立ち向かう方法として、産業化と市場経済があり、これ以外のやり方は提案されていない。先端的な技術革新は、先進国で生じている。もっと大きな動きは、在来技術がより賃金の安い場所に移転することで、グローバル化の原動力となっている。低賃金と科学技術の組み合わせで利益を上げる仕組みだ。この戦略がいま一番有効で、所得の上昇にもつながっている。これが一つの軸。

 この動きは行くところまで行く。そのあおりで先進工業国は軒並み経済成長率が落ち込んでいくから、それを盛り返す切り札は先端技術しかない。途上国に移転できない最先端技術を核にして、新産業を創出するという行き方がもう一つの軸となって、フロンティアが構成されている。この戦略がとれているのは米国だけで、日本は落ちこぼれている。以上は資本主義の中で起きていることなので、資本主義の限界があらわになったとは言えない。

大澤 資本主義には、豊かになればなるほど、貧しさも拡大する、増えれば増えるほど、足りなくなる、という不思議な逆説がある。誰かがもうかるほど、なぜか貧乏も拡大する。豊かになるためには資本主義化するしかないが、資本主義化したせいで貧乏になることもある。

 だが、問題なのは、資本主義以外のどんな提案も、資本主義ほどには魅力がないということ。資本主義とは異なるどんな提案も、資本主義ほどの普遍的な説得力を持つことができない。

 

 ◇経済発展と幸福の関係

 

保坂 資本主義を否定するのではなく、みんながより幸福に考えられる方向に資本主義を導いていくために足りないものは何か。

橋爪 経済が人間の幸せに結びつくか、という命題がある。

 幸せにも二つある。一つは経済のシステムの中で考えられている幸せ。これは富であり、金で買えるもののこと。もう一つの元々の考え方は、経済の外に幸せがあるというもの。幸せの条件を市場の中で作り出すことができないかというささやかなものだった。後者なら、経済と無関係に、幸せが定義できなければならない。今の問題点は、市場が大きく普遍的になりすぎて、すべての人が納得できる幸せのイメージが見当たらないことだ。

 資本主義に代わるものとして提案されてきたのは三つあり、その一つが平等。マルクス主義・社会主義がこれを追求したが、うまくいかなかった。もう一つは環境・自然との調和。これはいろいろな理由で今の形ではうまくいかない。もう一つは宗教。宗教を強調しすぎると、文明の衝突になってしまう。だから結局、三つともうまくいっていない。

大澤 市場の魅力は、どんな価値観をも飲み込んでしまう性能にある。それならば、できるだけ市場化した方がよいように思える。その方が効率的な分配が可能だからだ。しかし、市場化によって、元の価値の肝心な部分が不可逆的に変質してしまうことがある。

 具体的な例として、行動経済学の実験がある。ある保育園で、子供のお迎えに遅刻してくる親が多いので、罰金を取ることにした。それで遅刻者が減るかと思ったら、逆に増えてしまった。なぜなのか。元々遅刻する時、親たちは保育士さんに対して申し訳ないという道徳的な後ろめたさを持っていた。しかし、罰金を払うことができるようになったことで、堂々と「遅刻する権利」を買える、という気分になった。親たちは、1万円払うのだから、遅刻する権利がある、と安心して遅刻し始めたのだ。逆効果に気づいた保育園は罰金システムをやめたが、親たちの態度はもう元に戻らず、何の良心の呵責(かしゃく)も感じずに遅刻する親の数は高止まりしてしまった。

 先ほど触れた環境問題における排出権取引にも、同じ問題があるのがわかるだろう。貨幣には、多様な価値を普遍化する力があるが、同時にその価値の質を変えてしまうのだ。

保坂 資本主義には、個人の内面の部分が欠けているような気がする。精神性はもう少し回復しないといけないのではないか。例えば、米国の強欲な資本主義の世界でも、社会福祉のために数十億円規模の多額の寄付をする企業家がいる。一般の人も大なり小なり、寄付するのを美徳とする思想も残っている。ああいう面をもう少し強調できるような資本主義の方向性は考えられないか。

橋爪 資本主義が、寄付と両立するのかどうか。市場を全廃して、全部を贈与にしたらどうかという思考実験があって、経済学者が計算してみた。すると、贈与する側の財の種類と数量が人々の需要とうまく合致しないので、資源の配分がゆがんでしまい、市場に任せてパレート最適が実現するのに比べて、人々の福祉の水準が下がってしまうという結論になった。市場を贈与で置き換えることはできない。

 市場経済では、企業は利益を上げるように努力する。それは、経営者の資本家への約束で、資本主義の合理性を構成している。でも企業は利益のためだけではなく、人々の幸せを実現するという最終目標のために活動している。その過程で、資源が無駄にならないように利益が上がるように行動していると考えればよい。

 寄付は、資本家や企業が、利潤を上げるためだけに行動しているのではないと証明するための行為である。そうやって、資本主義システムから自分の人格の尊厳を守ろうとしているのだと思う。

保坂 自分は金もうけ主義一辺倒ではない、という意識を持たざるを得ないという点に、逆に言うと現在の資本主義がはらむ問題点があるのではないか。物質的なものを求める欲求だけでは生きてはいけない、満足できないということの表れであろう。

 その意味で、近代資本主義がはらむ危機が顕在化した2008年のリーマン・ショックの時、その被害が非常に少なかったと言われるイスラム式経済に学ぶところがあるのではないだろうか。

 

 ◇イスラム・中国のシステム

 

保坂 イスラムの経済は、ムハンマド以来、現物取引が原則であり、未来の可能性を取引する先物取引を否定している。また、レバレッジをかけるような倍々ゲームはできない。逆に、現在の金融経済が追求する経済のあり方で、真の豊かさが得られるのかという疑問もある。

大澤 イスラム法から来る制限があり、極端な金融経済がなかったのは大きい。ただ、イスラム経済がリーマン・ショックをうまく乗り切ったからと言って、資本主義のシステムの中に、リーマン・ショックのような危機を乗り越えるポテンシャルがあると考えてはならない。なぜなら、資本主義のシステムの常態の中では、イスラムは優等生ではなく、明らかに周辺的な地位にあるからだ。

 ムハンマド自身が商人であり、イスラム教は商人の論理を一般化し、昇華したものと見なすことすらできる。それなのに、資本主義においては常に後塵を拝している。これが不思議なところだ。石油はたまたまついてきたものでしかない。

保坂 先ほど橋爪さんから、本来キリスト教は精神と肉体に分かれ、資本主義は肉体を豊かにするという方向で発展したが、今は肉体が大きくなり、精神的なものが飲み込まれていく、との話があったが、そもそも精神と肉体を分けるキリスト教の発想に、資本主義が抱える問題の根源があるのではないか。

 つまり、キリスト教は神が人間を均一に作ったという前提なので、個人の内面の問題には触れない。人間の欲望とか衝動とか、精神の発展は考えず、人間は一つの単位の集団として発達してきた。逆に日本、アジアの宗教は、内面の問題を含めた世界を持っている。こういうことにキリスト教の経済の問題点はないか。

橋爪 そうとは言いにくいと思う。まず、イスラムや中国がリーマン・ショックの際に影響が小さくてすんだのは、それらの経済が、グローバル金融システムとつながりが薄かったから。中国は、経済が政治と無関係に自律的に動くという伝統がない。中国の経済システムは、世界経済のサブシステムというより、中国の政治システムのサブシステムという側面が強い。政府に強力にコントロールされているから、リーマン・ショックの影響を受けずにすんだ。

 リーマン・ブラザーズは強欲資本主義の代表のように言われたが、彼らは合法的に、新しい金融商品や運用手法を開発して、利潤のチャンスを最大限に生かそうとしただけ。ルールを守っている。とはいえ、経済システム全体を破壊させそうになったから、市場のしっぺ返しを食らって退場させられてしまった。ルールを守っている限り、道徳的にふるまおうが、強欲にふるまおうが、外見からは区別できない。それも資本主義の特徴だ。

大澤 大抵の経済学者は、資本主義は最小限のルールを設定すれば、どこでも発生し、順調に作動すると思っているが、必ずしもそうではない。アセモグルとロビンソンによる『国家はなぜ衰退するのか(邦題)』は興味深かった。資本主義では金持ちの国は常に金持ちで、貧乏な国は常に貧乏である。なぜ金持ちになる国民と失敗する国民があるのか、その運命を分けているのは何かを調べている。

 結論は明快で、「制度」による。成功の直接的な原因は、「インクルーシブ(包括的)な」経済制度。大多数の人が参加できるように、安全な私的所有権や公平な法体系などを持つオープンな市場。では、インクルーシブな経済制度をもたらす原因は何か。それは、インクルーシブな政治制度である。インクルーシブな政治制度は、権力の多元性と強力な国家の二つの条件で定義される。

 つまり、経済制度よりも政治制度の方がより基本的な要因ということになる。だからアセモグルらは中国の将来に懐疑的。中国では、政治制度に多元性がない。こういう制度のもとでは、経済成長のキャッチアップはできても、追いついてしまった後の発展は難しい。強力な国家が自由なイノベーションを望まず、その抑制を図るからである。

 では、なぜある社会ではインクルーシブな政治制度ができ、ある社会では収奪的な政治制度になるのか。アセモグルらの答えは、歴史の偶然だ、というもの。しかし、私はそうは思わない。インクルーシブな政治制度の二つの条件は、普通はトレードオフの関係にある。この二つが両立し、さらに互いに強め合うのは、極めてまれなことである。こんな奇妙なことを引き起こしうる原因があるとすれば、それこそ、宗教しか考えられない。つまり、特定のタイプの宗教の土壌の中からだけ、包括的な政治制度が生まれるのではないか、というのが私の仮説である。

保坂 つまり、いかに巨大化したシステムとしての経済であろうが、最終的には人間の営為である以上、そこには経済以外の要因があるということだ。私は「比較宗教学」や「比較文明学」の立場からこの点を考えているが、近代の西欧文明は「世俗化」を意識しすぎて、宗教と政治・経済の関係を過小評価しすぎている。だから近代以降の資本主義では、倫理や道徳を軽視する傾向がある。このへんを修正する必要があるのではないだろうか。

 

 ◇日本経済への示唆

 

保坂 経済というと日々の株価や物の動きに目を奪われがちだ。ややとっぴな表現で言うと、市場は土日は休みだが、我々の生活は休むことはない。その意味で、市場経済領域の過大評価は問題も多い。もっと文化や宗教という人間の存在に関わる部分を議論する必要がある。危機を回避できる可能性は、経済のシステムではなく、システムを支えるどこかにあるのではないかと思う。

橋爪 日本は経済システムを支えるのに、政治や法律の役割が比較的小さかった。その代わり、大きな役割を果たしたのは教育だった。明治時代に国が、初等中等教育を近代化の一環として強力に普及させた。日本は宗教の力が小さかったので、道徳や倫理を学校で教えてもどこからも文句が出ず、行動のフォーマットが出来上がった。学校的価値観や行動様式が資本主義を支えるという構図になっている。明治からの約100年間はこれでうまくいっていたが、最近うまくいきにくくなっている。

大澤 教育システムは、日本の数少ない取りえだったが、それすらもうまく機能しない時代になった。学校の中でがんばって成績を上げることと、社会システムの中で満足がいく人生を送れることの相関関係が、ある時期までは高かった。ところが20世紀末期ぐらいからその相関関係がたいへん小さくなってしまった。

保坂 その原因は、日本文化が数百年をかけて築いてきた道徳・倫理、それを支えるいわば宗教性が、おろそかになったからではないか。

橋爪 日本経済の良い面も挙げれば、働くことを「救済」(よいこと)と思っているのは、世界中で日本人ぐらい。職場で手を動かしてモノを作ったりサービスしたり、ビジネスをしていること自体が幸せで、給料以上の「報酬」になっている。職場は一種の、聖なる空間。だから神棚がどの職場にもあったりもする。

 こういう感覚は極めて特異なものだ。日本の大学が大したことがなくても、職場でうまくいっている限り、値段は少々高くても、いい品質のモノを作り続けられる。これはよその国がキャッチアップして真似できるという性質のものではない。

大澤 古くからの宗教性が、日本にまだ残っている。道を究める「○○道」というのは日本人独特のものだ。仏教的な修行の原理が、世俗の職業や活動に宿り、さまざまな芸道になったのである。

 この行動様式、エートスが、今日のモノ作りに受け継がれている。物に精神性を感じ、あたかもそこに神が宿るかのように細部にこだわり、「道」を究める要領で、改良に改良を重ね、商品を開発していく。それに生きがいを感じ、独特の才能を発揮している中小企業がまだたくさんあるのは、日本にとっての希望だろう。(構成=秋本裕子・編集部)

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 ■人物略歴

 橋爪大三郎(はしづめ・だいさぶろう)(社会学者)

 1948年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。2013年3月まで東京工業大学教授を務めた。著書に『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、大澤真幸氏と共著)など。

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 ■人物略歴

 大澤真幸(おおさわ・まさち)(社会学者)

 1958年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。千葉大学助教授、京都大学教授を歴任。思想誌『THINKING「O」』主宰。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社)など。

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 ■人物略歴

 保坂俊司(ほさか・しゅんじ)(比較宗教学者、中央大学総合政策学部教授)

 1956年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修了。麗澤大学教授などを経て現職。著書に『宗教の経済思想』(光文社新書)など。