2014年

1月

14日

特集:英語と経済 脱・英語コンプレックス 2014年1月14日号

 ◇勉強科目以上の切実な必要性を自分の内部に見つける

 

片岡義男

(作家)

 

 英語という外国語は、ほとんどの日本人にとって、学校での勉強に始まり、学校での勉強に終わる。中学からその勉強を始めて高校で終わるとしても、実に6年の長きにわたって、英語を勉強科目として誰もが背負い込む。中学生という難しい年齢の人たちに、学校の勉強科目はたくさんあり、どの科目でも試験やテストがあり、そのつど採点され、最終的には通信簿での評価として、固定されてしまう。英語がいったん苦手科目になったら、修正はきかない。英語が苦手のまま、学校の勉強を終える。終わったらそれっきりだから、せいせいすることは確かだが、英語は苦手だったという事実は、いまもそしてこれからも苦手であるだろう、という未来として続いていく。

 学校の勉強科目というものは、実は困ったものなのだ。学校で勉強するのはあたりまえでしょう、何が困るのですか、と反論されたなら、それこそが大困りなのだが、僕にはそれ以上どうすることもできない。勉強科目にしなければ、英語を苦手とする人たちの数は、激減するような気がする。勉強科目にしないとは、試験やテストをしない、したがって採点もしないから成績として固定されることもない、ということだ。難しい単語のつづりを正しく素早く口頭で言う競争などのように、採点することが当然の領域では、愉快な催し物として採点し、順位をつけ、みんなで楽しめばいい。それ以外の領域では、試験なしで成績評価もなし、ということにすると、気が楽になるだけでも学習の効果は飛躍的に上がるのではないか。

 

 ◇社会との接点欠く学校教育

 

 日本人にとって英語を苦手なものでなくするためには、学校での教育のしかたの全域を、抜本的に変えなければいけないのだろう、と僕は思う。学校とそこでのさまざまな教育は、あるのが当然であり、それを受けることを通して人は成長していく、と思われている。その通りだろうけれど、学校とそこでの教育というものが、いかに不自然なものであるかには、もう気づいたほうがいい。学校での教育で全員の粒をそろえた上で労働力として企業その他に注入する、というこれまでの学校教育は、社会との接点を欠いている点において、不自然さをきわめきっている。勉強科目とその試験そして成績は、全員の粒をそろえるために機能してきた。………