2014年

2月

25日

特集:世界史に学ぶ経済 PART1 歴史で今を読み解く 2014年2月25日特大号

 ◇疑問1 米国の金融政策はなぜ市場を乱す?
 ◇一蓮托生のドル体制に危機の遠因

倉都康行
(RPテック代表取締役)

 昨年来、米国の金融政策変更を巡る観測が、各国の市場に大きな影響を及ぼしている。引き金となったのが米連邦準備制度理事会(FRB)による量的緩和縮小の開始だ。それは市中に大規模に供給してきたマネー(ドル)の量を減らすもので、政策金利を直ちに引き上げるといった金融引き締め策ではないとしながら、国際的な「資本の米国回帰」という思惑を強めた。今年に入ってからもアルゼンチン・ペソやトルコ・リラの「売り」を加速し、世界中で株価下落を誘うこととなった。

 世界最大の経済国である米国が、各国の経済や市場に影響を及ぼすのは自明である。ただし、GDPで米国が世界に占めるシェアは25%程度。為替レートや各国の物価水準の違いを考慮した購買力平価ベースでは年々低下しているのが実情だ。
 従って、米国の金融政策に対する敏感な市場の反応は、「ドル」という米国の通貨が世界中で利用されていることから来る、と考えるのが妥当だろう。過去に何度も「ドル危機」や「ドル離れ」が叫ばれながら、各国が対外支払いのために持つ通貨(準備通貨)に占めるドルのシェアは依然として60%近辺を維持している。
 そうした「世界的なドル体制」が形成された契機となったのは、1944年に米ニューハンプシャー州ブレトンウッズで開かれた国際会議だった。第二次世界大戦後に世界経済を再構築するための体制が協議され、通貨体制についても検討された。
 新たに国際通貨「バンコール」の創設を提唱する英国代表の経済学者ケインズと、ドルを主軸とするシステム構築を主張した米国代表の財務省高官ホワイトの間で激しい議論が交わされた。この末に米国が勝利し、ドルを基軸通貨(国際間の決済に広く用いられる通貨)とする体制への布石が打たれたのである。
 米国がこの「金融戦争」を制した理由としては、第一次世界大戦で欧州経済が疲弊する間に同国が純債権国に転じたこと、13年に中央銀行に相当する現FRBの設立などを通じて金融インフラを整備し、いち早く金本位制への復帰を果たしたこと、などが挙げられる。
 このときに確立したドル体制は「金・ドル本位制」とも呼ばれた。米国はドルと金との交換比率(金1オンス=35ドル)を定めており、外国の通貨当局に対し、この比率で金交換に応じたからである。ドルと他国通貨の交換レートは一定となる固定相場制が採られた。

 ◇ありがた迷惑なドル

 ブレトンウッズ体制の発足直後に基軸通貨が英ポンドからドルへと一気に交代したわけではないが、英米の実体経済力の逆転や、米国による欧州復興支援計画(マーシャル・プラン)などを反映して、徐々にドルの存在感が高まっていく。さらに米国の貿易赤字拡大に伴うドル流出も手伝って、世界各国でドルによる交易決済が主流となっていった。グラスゴー大学のシェンク教授の研究によれば、外貨準備に占めるポンドとドルのシェアが逆転したのは、55年のことであった、という。債券や融資などの国境を越えた資本取引においても、ドル建て取引が他の通貨を圧倒するようになった。
 ヨーロッパや日本で戦後復興が終わり、ドルを大量に保有するようになると次第にドルと金の交換性に不信が生じる。フランスなどは執拗(しつよう)に金への交換請求をし、これがドルと金の引き換えを一方的に停止した71年のニクソン・ショックにつながった。73年には変動相場制に移行する。ただ、国際通貨としてのドルの地位が揺らぐことはなかった。
 ドルは世界各国の経済インフラにしっかりと根を下ろした。だが、新興国や途上国など脆弱(ぜいじゃく)性のある国の経済は、米国の金融政策の変更によって、大きく揺さぶられる運命を受け入れることになった。
 その「ありがた迷惑なドル」の一例が、70年代に産油国に蓄積されたマネーが米銀行を経由して開発途上の国々へと投じられたオイルダラーである。ドルで取引される原油市場を通じて中東にドルがたまり、それが開発資金需要の強い新興国・途上国に環流したまでは良かった。ところが、79年8月、ポール・ボルカーがFRB議長に就任。インフレ抑制のために厳しい引き締め策に転じたことで米短期金利が急上昇する。
 この影響で新興国の対外支払い金利も急上昇し、折からの景気失速や資源価格下落という逆風も受けて、ブラジルやアルゼンチン、メキシコ、フィリピン、ポーランドなどが相次いで支払い不能の状態に陥ったのである。いわゆる「累積債務問題」だ。この難局は、世界の大手銀行が各政府に対する債権を放棄し、融資条件を緩和するなど既存債務を大幅にカットすることで何とか乗り切った。
 87年8月、ボルカーの後任としてグリーンスパンがFRB議長に就任する。最初に直面した試練が同年10月の株価暴落「ブラック・マンデー」だった。グリーンスパンは即時に積極的な金融緩和策をとり、信用不安の発生を防ぐ。その後の景気後退に際しても緩和策で臨んだ。
 94年、再び市場の荒波が新興国を襲った。「テキーラ・ショック」と呼ばれたメキシコの通貨危機だ。日本にも波及し、翌年に1ドル=80円割れの円急騰を演出している。この時のメキシコ・ペソ売りは、左派ゲリラ集団の武装蜂起や大統領候補の暗殺事件など同国の内政不安に端を発したものだったが、市場にマグマとしてたまっていたのは、メキシコ政府が海外市場において短期のドル借り入れを過剰に拡大するという、国際収支構造上の不安定感だった。
 ここに94年2月から始まったFRBの5年ぶりとなる引き締め策が加わった。メキシコへの資本流入を支えていたのはドル・ペソの固定為替制度であった。FRBの政策金利引き上げは世界中でドル買いを誘発し、メキシコ銀行(中央銀行)の懸命の為替介入にもかかわらずペソ売りが加速して、固定レートを放棄せざるを得なくなったのである。
 80年代の累積債務問題の背景にあったのは当時のボルカー議長による「インフレ封じの金融引き締め策」であり、94年のテキーラ・ショックの引き金を引いたのはグリーンスパン議長による「インフレ予防的な利上げ策」であった、とも言えよう。

 ◇歴史は繰り返す

 97年にタイ・バーツ急落を契機に雪崩のようなアジア諸国の通貨売りを招いた「アジア危機」も、ドルと米国の金融政策の動きと無縁ではない。当時のアジア諸国は為替レートをドルに固定する「ドルペッグ制度」を採用しており、その安定的な通貨制度と高金利政策で海外資本を取り込み、輸出主導で成長する経済モデルを構築していた。その資本の通貨は言うまでもなくドルであった。
 だが、前述したように94年以降のFRBは利上げ過程にあり、米国がドル高を許容する政策を取っていたため、アジアからも資本が引き揚げられるムードが醸成され始めていた。なかでも恒常的な経常赤字体質にあったタイがヘッジファンドなどの攻撃対象となり、通貨バーツが一気に急落すると、その余波はインドネシアや韓国、マレーシアなどにも急速に広がっていったのである。
 このアジア危機は、98年にはロシア危機に、99年にはブラジル危機へと連なっていった。それぞれの国に固有の原因はあったとは言え、第二次世界大戦後に構築された「ドル体制」の下で、米国の金融政策や通貨政策が世界のあらゆる地域で「危機の遠因」となっていることがわかる。
 そして2001年にはアルゼンチンに火が付いた。他の新興国通貨の対ドルレートが引き下げられるなかで、1ドル=1ペソという固定相場は経常収支の赤字や対外債務の膨張をもたらし、それまで流入していた外貨が一気に流出して経済危機が発生したのである。
 それから12年。バーナンキ前FRB議長がリーマン・ショック後に採用してきた緩和策の縮小を示唆したことから、新興国の債券と通貨、為替は大きく下落した。さらにイエレン新議長へのバトンタッチを目前とした今年1月、市場は再び「アルゼンチン・ショック」に見舞われた。その原因は過去とほぼ同様である。米国の金融政策変更は、米国からあふれ出たマネーにうまく隠れていた新興国の脆弱さを暴いてしまうのだ。現代の「ドル体制」が続く限り、新興国が米国の金融政策に振り回される構造は変わらないだろう。