2015年

6月

16日

特集:世界を変えるiPS産業 2015年6月16日特大号

 ◇iPS細胞に続々集まる投資 

 企業も国も新治療に熱い視線



谷口 健(編集部)


 iPS細胞(人工多能性幹細胞)による再生医療や創薬に、製薬企業やバイオ医薬ベンチャーが続々と投資をしている。精密機械メーカーや化学メーカーなども参入し、政府も積極的に後押しをしている。

 最近の動きは特に激しい。3月、富士フイルムHD(ホールディングス)が、iPS細胞の開発と製造で世界大手の米セルラー・ダイナミクス・インターナショナル(CDI)の買収を発表。5月に2億7800万㌦(約330億円)で子会社化した。4月には、国内製薬最大手の武田薬品工業が、iPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が率いる京都大学iPS細胞研究所と10年にわたる共同研究契約を締結。武田薬品が施設代を含み計320億円を負担し、iPS細胞を用いた新薬開発を目指す。

 製薬以外の業界からの参入も相次ぐ。ニコンは5月7日、再生医療向け細胞生産で世界最大手のロンザ(スイス)と提携。日本における再生医療用細胞などの受託生産事業に参入する。オリンパスも新規事業としての再生医療に注力する。三菱ケミカルHDも、5月14日に再生医療への本格参入を発表した。


 ◇政府予算1100億円


 これほどの投資が集まるのは、iPS細胞が持つ可能性が大きいからだ。iPS細胞は、皮膚や血液から作製でき、無限に増殖できること(自己複製能)、神経細胞や心筋細胞などあらゆる細胞に変化できること(分化多能性)などの特徴がある。同じ万能細胞で受精卵子から作るES細胞(胚性幹細胞)と異なり、受精した卵子を加工しないので、倫理問題を解消している利点も大きい。 政府は、ES細胞の応用では保守的な態度を示してきたが、iPS細胞に関しては積極的だ。山中教授がノーベル賞を受賞した影響も大きい。政府はすでに、2013~22年度の10年間で約1100億円を、iPS細胞などに関連する再生医療や創薬の研究に予算を出すことを決めている。

 14年11月には、「医薬品医療機器法(旧薬事法)」と「再生医療安全性確保法」という二つの法律が施行された。これにより、再生医療製品が安全性の確認と有効性が推定された段階で、条件付きの承認が得られ、再生医療の早期実用化が見込める環境となった。企業側からは「制度的には日本が世界最先端になった。(これまでは再生医療の産業化に保守的だった)厚生労働省が、仲の良くない経済産業省と手を組んでやっている」と評価する声も聞こえてくる。

 山中教授がマウスの皮膚細胞に四つの遺伝子を入れてiPS細胞を作製したのが06年。翌年にはヒトの細胞でも成功した。14年9月には、目の難病である「加齢黄斑変性」の患者に、iPS細胞から作った網膜色素上皮細胞を移植する世界初の手術を、理化学研究所の高橋政代プロジェクトリーダーが実施。半年後の患者の経過も順調だ。17年までに2例目の移植手術を行う予定だ。

 iPS細胞から作る各細胞の移植手術は、今後も多く予定されている。京大iPS研の高橋淳教授は、パーキンソン病患者にiPS細胞から作製する神経細胞を移植する手術を16年度にも実施する。大阪大学の澤芳樹教授は、足の筋肉の幹細胞から作る心筋細胞の移植手術で成果を上げ、16年度にiPS細胞から作る心筋細胞を移植する臨床研究を目指している。「心不全治療の先端は、心臓移植から人工心臓に、人工心臓から再生医療に移っている」と力を込める。


 ◇30年代半ばに世界で20兆円


 マーケットでもiPS細胞関連企業の認知度は高まっている。6月16日には、iPS細胞による加齢黄斑変性の新治療の事業化を目指すヘリオス(東京都港区)が東証マザーズに上場する。同社には、住友化学の子会社・大日本住友製薬が開発費をバックアップ。技術面では、理研の高橋リーダーが関わる。

 4月にマザーズ上場を果たしたサンバイオ(東京都中央区)も8月にさらなる一歩を踏み出す。同社は、骨髄液を加工・培養する再生細胞薬「SB623」(脳梗塞薬)の事業化を目指している。その試験として、米国で約150人の患者を対象とした投与を始める。

 こうした再生医療の市場規模は、経産省によると、細胞を培養するための液や装置などを含め2020年に国内で950億円、世界で1兆円になると予測。30年にはそれぞれ1兆円、12兆円。さらに、30年代半ばには、日本で約1・7兆円、世界では20兆円を突破する予測だ。

高橋政代氏が研究を進める神戸市の理研・多細胞システム形成研究センター(CDB)
高橋政代氏が研究を進める神戸市の理研・多細胞システム形成研究センター(CDB)

 ◇iPSで変わる創薬

 

 iPS細胞が実力を発揮するのは再生医療分野だけではない。新薬の発見と市販化に向けた開発をする創薬分野でも大きな役割を果たす。

 従来の創薬では、マウスやサルなどの動物実験で薬が効くかなどを調べてきた。しかし、iPS細胞であれば、病気を抱える患者の皮膚や血液を採取して、その病気を細胞レベルで再現することができる。この方法であれば、動物実験を経ずにヒトの細胞で薬の安全性や副作用、毒性などを確かめることができる。

 新薬の候補となる化合物は製薬企業が多く抱えている。一つの新薬が世に出る成功確率は約3万分の1にすぎない(日本製薬工業協会調べ)。これまでは、例えば、マウスに効かない候補物質は“お蔵入り”となっていた。つまり、これまで日の目を見ていない多くの化合物のなかから、今後新薬が見つかる可能性もある。武田薬品が京大iPS研とタッグを組んだのもまさにこうした創薬が狙いだ。

 このような再生医療や創薬の将来性を見越し、先端医療の研究開発の特別地区を作る計画が川崎市で進んでいる。多摩川をはさんだ対岸に羽田空港がある殿町(とのまち)地区で、富士フイルムが進出するほか、米製薬最大手ジョンソン・エンド・ジョンソン、国立医薬品食品衛生研究所、筑波大学発のロボットベンチャーであるサイバーダインも拠点を設ける。経産省は、同地区で建設が進む複合施設「ライフイノベーションセンター」に14年度に14億円の予算をつけた。16年3月に完成予定だ。

 一方関西では、神戸空港の北にある神戸市の人工島に、高橋政代氏が所属する理研・多細胞システム形成研究センター(CDB)や、大日本住友製薬の研究施設、ヘリオスの合弁会社「サイレジェン」などが密集している。

 川崎市のプロジェクトも同様のビジョンで、「西の神戸医療産業都市」に対する「東の川崎殿町」で世界トップの再生医療の研究開発をする計画。殿町地区には、2020年ごろまでに羽田空港と直接つながる橋がかかる予定だ。将来的には、海外から来る患者に再生医療の手術などを行う「医療ツーリズム」を展開することも視野に入れる。

川崎市の殿町地区では再生医療関連施設などの建設が進む(2015年6月4日)
川崎市の殿町地区では再生医療関連施設などの建設が進む(2015年6月4日)

 ◇ビジネスになるか

 

 iPS細胞には各方面から期待がかかるが、乗り越えなければならない壁もある。

 最重要課題は実際にビジネスになるかどうかだ。世界初のiPS細胞を応用した加齢黄斑変性の手術には5000万~1億円かかった。今後は、患者以外のドナーから採取する他家(たか)細胞による移植や、治療に必要な細胞を含んだ縣濁液(けんだくえき)で事業化し、コスト削減を目指す。将来的には数百万円台も視野に入れるが、その間も費用に見合う効果を出せるかが課題となる。

 15年にわたり日本のバイオ医薬業界を分析するいちよし経済研究所の山崎清一首席研究員は、iPS細胞ビジネスの未来について、「iPS細胞でしか治らない治療法の確立が不可欠」と指摘。そして、「研究用ツールなど関連のビジネスで引き合いが増えても、単価が大幅に下がって売り上げや収益が伸びず、結局ビジネスにならないという事例も出かねない」と警鐘を鳴らす。

 一方、海外ではES細胞の研究も進んでいる。人工授精の際に余った胚をもとに作る「IVF─ES細胞」や、未受精卵子の核を取って皮膚や粘膜の核を入れて作る「SCNT─ES細胞」など、最新論文も発表されている。こうした倫理問題を解消したES細胞は、iPS細胞の強力な競争相手になる可能性がある。東京工業大学や京大・再生医科学研究所で教鞭(きょうべん)をとる仙石慎太郎准教授は、「日本が日本発のiPS細胞を重要視するのはわかるが、iPS細胞だけでなく、ES細胞や新たに出てくる細胞も含めて『多能性幹細胞』全体をしっかり見るべき」と提言する。

 iPS細胞の関連技術は、間違いなく日本が世界をリードする分野だ。だが、パイオニアであるがゆえに世界や市場の潮流を注意深く見ていかないと、世界基準を作る主導権を握れない危険性もある。iPS細胞の発見から9年──。再生医療や創薬に向けてiPS細胞の関連産業が飛躍しようとしているいま、一過性に終わらせない産官学の取り組みが必要だ。

 

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