2015年

6月

16日

追悼:ゲーム理論の天才、ジョン・ナッシュ氏死去

写真:共同通信


田代 秀敏

(シグマ・キャピタルチーフエコノミスト)


 経済分析に今や欠かかすことができない数学的道具であるゲーム理論において、創始者ジョン・フォン・ノイマンに優るとも劣らない天才であったジョン・F・ナッシュ2世(以下、ナッシュ)は、2015年5月23日、米国ニュージャージー州で死去した。1928年6月生れであったから86歳であった。


◇94年にノーベル経済学賞を受賞


 ナッシュは、1994年にノーベル記念経済学賞を受賞した。選考理由は「非協力ゲームの理論における均衡の先駆的な分析」であった。


「非協力ゲーム」とは、約束に拘束力が無い状況を数学的に抽象化したものであり、その「均衡」とは、各々の行動主体(ゲーム理論では「プレイヤー」と呼ばれる)が、互いに相手の行動プラン(ゲーム理論では「戦略」と呼ばれる)を読み合って自分の利得(ゲーム理論では「ペイオフ」と呼ばれる)を最大にしようと自分の行動プランを選択した結果である。この均衡は今では「ナッシュ均衡」と呼ばれ、経済学の応用分野でも分析に欠かせない概念となっている。

 ナッシュ自身のゲーム理論に関する業績は、21~22歳であった1949~50年に執筆した4本の論文である。どれも世界で最も権威のある学術雑誌に掲載された。


◇N人ゲームの均衡点


 その中で最も頻繁に引用されてきたのは、博士論文「非協力ゲーム」の一部の数学的要旨である「N人ゲームの均衡点」であり、『ネイチャー』や『サイエンス』と並び世界で最も権威ある総合学術雑誌『米国科学アカデミー紀要』に1950年に掲載された。

 実質1ページの極めて短い論文であったが、非協力ゲームの一般的な理論モデルを厳密に定義し、日本人の世界的な数学者である角谷静夫(1911~2004年)が1941年に証明した不動点定理を用いて、非協力ゲームにナッシュ均衡が少なくとも1つ存在することを証明する数学的手法は、1954年にケネス・アロー(米、1921年~)そしてジェラール・ドブリュー(仏、1921~2004年)の2人の経済学者によってそのまま借用され、19世紀以来の古典的な完全競争市場経済モデルにおいて各市場の需給が同時に均衡することの数学的な証明をもたらした。

 これは「一般均衡理論」と呼ばれる重要な研究分野の礎となり、そこから二階堂副包(1923~2001年)、森嶋通夫(1923~2004年)、宇澤弘文(1928~2014年)、根岸隆(1933年~)などの日本人の数理経済学者達が世界的な業績を残していった。

 アローは1972年に、ドブリューは1983年に、それぞれノーベル記念経済学賞を受賞したのに対し、ナッシュの受賞が1994年と大きく遅れたのは、2001年の映画『ビューティフル・マインド』で描かれたように、1959年から1980年代半ばまで、ナッシュが統合失調症を患ったからであった。

 1950年の博士論文「非協力ゲーム」は、1948年9月にプリンストン大学大学院の数学科に20歳で入学したナッシュが、僅か1年と2カ月で完成したものであり、若干異なる内容が、数学の世界で最も権威ある学術雑誌のひとつ『アナルズ・オヴ・マセマティクス』に1951年に掲載された。非協力ゲームによって表現される経済や社会の問題を分析するための一般的な枠組みが構築されており、正に革命的な業績であった。

 長らく公開されなかった博士論文には、後に発展した進化論的ゲーム理論や限定合理性理論のアイデアが記されているが、参照文献に挙がっているのは、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンとが協力ゲームを分析した『ゲームの理論と経済行動』(1941年)、そして上記1950年の『米国科学アカデミー紀要』掲載の自分の論文だけであり、ほぼ独力で非協力ゲームの理論を構築したのであった。

 しかし、ナッシュは考察を更に深め、拘束力のある約束に基づく協力や提携を形成する交渉のプロセスそのものを大きな非協力ゲームとすることで協力ゲームを自分が開発した非協力ゲームの理論によって分析し、非協力ゲームと協力ゲームとの双方を包摂する「ゲームの一般理論」を構築するという壮大な研究プログラムを提示した。

 この「ナッシュ・プログラム」は、利害の対立と協力とが複雑に絡まり合う状況を解明する経済・社会の一般理論の方法論的基礎であり、アダム・スミスやデヴィッド・リカード等のかつての偉大な経済学者達が目指した「政治経済学」を可能にする、正に画期的なものである。


◇時代を先駆けすぎた研究


 しかし、ナッシュ・プログラムを提示した論文「交渉問題」および「2人協力ゲーム」は、どちらも経済学の世界で最も権威ある学術雑誌のひとつ『エコノメトリカ』に掲載されたものの、時代を先駆け過ぎた内容であったため、経済学者によって発展されることは少なく、今日に至るも未完のままである。

 筆者はナッシュと1997年にイタリア・ミラノで、2002年に中国・青島でそれぞれ開催された国際学会で話した。

 ミラノでは、ナッシュ均衡に関する様々な研究報告をずっと黙って聴いていたナッシュが、筆者のナッシュ均衡の計算可能性に関する報告にだけ質問した上に、その後の晩餐会で、ナッシュはほとんどの時間、筆者とだけ純粋に理論的な議論を深夜までした。

 青島で会った時、ナッシュは筆者を覚えており、持参したカメラで筆者を撮ってくれた。あの写真はナッシュ家のアルバムのどこかに貼られているのだろうか。

 どちらの時も、ナッシュはカジュアルな服を着、コンバースのバスケット・シューズを履き、ヴァージニア・スリムを吸う、常に温和な表情で、少しも気取らない人柄だった。

 ミラノの学会では、ナッシュのプリンストン大学以来の親友であるハロルド・クーン教授がゲーム理論の50年を回顧する講演を行なった。その中で、プリンストン大学の大学院に提出されたナッシュを推薦する文書には「This boy is a genius(こいつは1人の天才である)」と1行だけが書かれていたが、ナッシュが入学すると直ぐに、教授達も大学院生達も、冠詞の「a」も「the」もいらない「This boy is genius(こいつの他に天才はいない)」だと分かったと話していたが、ナッシュは正にその通りの天才であった。

 ナッシュは純粋数学の分野でも重要な4本の論文を著しており、どれも『アナルズ・オヴ・マセマティクス』に掲載され、その業績によって1958年に数学で最も権威あるフィールズ賞の最有力候補となった。

 今年、数学では賞金が最高額のアーベル賞を受賞し、その授賞式が開かれたノルウェー・オスロからの帰途、空港からプリンストンの自宅へ向かう途中で乗ったタクシーが交通事故に遭い、夫人と供に死亡した。

 その死の3日前、ナッシュは、フィールズ賞を2010年に受賞した数学者セドリック・ヴィラニ(1973年~)に、相対性理論と量子力学との双方の基礎に関する自分の新発見を話し、ヴィラニはその発見に驚愕したと、英『タイムズ』が報じている。ミラノの学会の晩餐会で、自分の新しいアイデアを静かに、しかし情熱的に筆者に語っていたナッシュの姿が思い出される。