2015年

7月

28日

軽き日本国憲法:「永続敗戦国」の憲法に優先する米国 2015年7月28日号

◇安保法制が示した二重の法体系


白井聡

(京都精華大学専任講師)


新安保法制を契機として、戦後憲法における本質の問題が、いよいよのっぴきならない形で姿を現してきた。集団的自衛権の行使容認は、疑いなく参戦を、つまり自衛隊員が殺し殺されるという状況を導く。政府は、「限定的行使容認」をアピールしているが、この「限定」を段階的に取り払っていく目論見であることは、言うまでもない。ゆえに、新安保法制が違憲であることは、明らかである。

 問題は、「なぜこのような明白な違憲立法を政府与党は強行しようとしているのか」というところにある。この核心には、二つの側面から接近することができる。

 一つは、手続き論的な次元からの批判だ。すなわち、集団的自衛権の行使に相当する立法をなしたいのであれば、まずは憲法を改定し、その上で今次のような立法をするべきである、ということ。二つ目は、手続き上の瑕疵(かし)をクリアしたとして、集団的自衛権の行使容認へと踏み切ることが、日本の安全保障に貢献するのか、という疑問である。本稿では、紙幅の制約上、前者の手続き上の問題のみを考察する。

 ◇対米従属の支配層


 今、繰り広げられている政治闘争に、戦後憲法の本質的な問題が現れていると私が見なすのは、端的に次の問題が問われているからだ。それは、日本の最高法規たる日本国憲法と「米国と約束したこと」のどちらが優先されるのか、という問題にほかならない。

 多くの識者が指摘するように、安倍晋三政権のやっていることは、「集団的自衛の禁止は同盟の障害である」と断じた第3次アーミテージリポート(米国超党派の対日政策)が勧奨した内容の忠実な実行である。

 安倍首相は昨年、集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、今年の訪米という段階を踏んで米国と約束をし、いよいよ最終局面に入ろうとしている。政権側の視点に立てば、今次の法案が違憲であろうがあるまいが、どうでもよい。彼ら、つまり「無制限対米従属レジーム」の支配層にとって、真の法とは、米国との約束以外の何物でもないのだから。そして、同様の構図が環太平洋パートナーシップ協定(TPP)等の問題にも当てはまることは、言うまでもない。

 彼らの本音をはっきりと指摘してみせたのは、矢部宏治氏による『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(2014年)だ。同書が極めて平明に解明したことによれば、戦後日本の法体系は構造的に二重化されている。

 すなわち、建前上は日本国憲法が最上位にある一方で、日米間で取り結ばれた無数の条約、さらには密約による決まり事の体系が存在し、両者が矛盾する場合には後者が優越する、という構造だ。言い換えれば、憲法を頂点とする日本の法体系全般が、決定的な局面において、さしたる重みを持たないのである。安全保障関連法案の立法過程は、この秘密がいよいよ万人に見える形で姿を現すという事態を招いた。

 そのため今回の事態を私は、ある意味で歓迎している。いい加減に白黒つけなければならないのだ。長きにわたり改憲・護憲の両陣営に分かれて、激しい論争を繰り広げてきたが、果たしてそれは、本当に意味のあることだったのか。改憲であれ護憲であれ、「二重の法体系」の構造に手を付けられないのなら、意味がない。これが、露呈した状況の浅ましい本質であり、それこそ、我々が直視せねばならないものにほかならない。

 そして、それが直視される時、この不健全な構造を自己利益として享受し、戦後日本を支配してきた権力の本質(=永続敗戦レジーム、『永続敗戦論』〈太田出版〉を参照のこと)が認識されざるを得なくなる。その時こそ、かかる「侮辱の体制」をこれ以上、護持し続けるのか否かという問いが国民に突き付けられる。


 ◇日本国民の利益は犠牲


 その意味で、戦後体制の本質を白日の下にさらしつつある今般の事態は、我々が主権在民の社会を獲得するためには、避けて通ることのできない過程である。仮に、いま広範に広がりつつある政権への嫌悪感が、何の政治的結果ももたらさなければ、既にこの国が転げ落ちつつある坂道は、その傾斜度を著しく増大させるだろう。早い話が亡国である。

 それでは、安倍首相ら「永続敗戦レジーム」の主役たちは、なぜ正攻法を採ることができないのだろうか。集団的自衛権の行使容認が必要なことを彼らが深く確信しているのなら、まずは憲法を改定し、それから新安保法制を整えればよい。無論、そのためには、改憲のための国民投票を経ねばならない。国民投票では改憲派が負けるかもしれない。だが、彼らが自分たちの考えに自信があるのならば、何度でも挑戦すればよいだけの話だ。説明を尽くした正論ならば、いつかは通るだろう。

 しかし、彼らはそれを決して実行しない。ここから透けて見えるのは、彼らの傲慢な態度の見掛けに隠された、本質的な自信のなさである。彼らは理解している。彼らの権力とは、その起源において、敗戦を米国の庇(ひ)護(ご)のもとに誤魔化すことで維持されたものだということを。そのため、決定的な局面において、日本国民の利益を犠牲にして、彼らの「雇い主」に尽くさなければならないのだ。つまり、誤魔化しによって成立し、日本国民への裏切りによって維持される権力である以上、ひとたび、これを手放せば、彼らは永久に立ち直れないのである。

 そもそも、彼らが日本の安全保障の責任者を任じていること自体が異様なのである。満州事変からの15年戦争がどのようにして始められ、どのようにして泥沼化し、どのようにして止めるに止められない状態に陥り、最終的には核攻撃までも受けるに至ったのか。これを総括せず、責任の所在を曖昧なままにすることで維持された体制(=国体護持)の支配層の後継者(安倍首相はその象徴)たちが、国民の生命やら財産やらの保護について、深刻めいた顔つきでものを言っている。笑止千万だ。

 これは、彼らの安全保障環境に対する認識の正確性以前の問題である。彼らには、日本の安全保障を語る資格がない。このことを内心分かっているからこそ、彼らは正攻法を採る代わりに、詭弁(きべん)そのものの憲法解釈をゴリ押しするほかないのである。

 前述のように、二重の法体系に規定された戦後憲法は、本質において無力であったが、それでも軍事領域での対米従属に対する一定の歯止めの役割は果たしてきた。言い換えれば、憲法9条は、構造的に脆弱(ぜいじゃく)な日本の独立性を何とか補強するものとして機能してきた。

 それを自ら進んで取り払い、米国の軍事的暴走にどこまでも付き合うという方針を安倍政権は打ち出した。独立か自己保身か──。彼らは後者を選んだ。結局のところ、「保守」を自称する安倍首相にとって、世襲によって手に入れた権力以外に、守るべきものなど実は何一つない。今日の憲法危機が照らし出しているのは、この赤裸々な事実であり、国民に突き付けられているのは、「こうした権力の存続を許すほど、国民は愚劣な存在なのか」という問いなのである。