2015年

8月

11日

戦後70年:石油と原発に翻弄された70年 2015年8月11・18日合併号

 ◇資源小国ゆえの苦しさと努力


大堀達也(編集部)


 2011年3月の東日本大震災による福島第1原発事故は、資源小国の日本を揺るがした。エネルギー政策を巡り百家争鳴したが、明確な答えは見いだせていない。

 戦後70年を振り返ると、復興を支えた国内の石炭、高度成長に寄与した輸入による石油、新たな電源としての原子力、オイルショック後の省エネ追求と資源の多角化など、日本は状況に応じてエネルギーを選択し巧みに対応してきた。


 ◇「油主炭従」と原発の登場


 終戦直後の日本は、壊滅した国内産業を立て直すためのエネルギー確保が最大の課題だった。当時は連合国によって石油の輸入が制限されており、日本はわずかな資源と資金を、石炭と鉄鋼を中心とする基幹産業に集中させる「傾斜生産方式」を打ち出した。1950~60年代初めまでの復興期を支えたのが国内産の石炭だ。45年の生産量が約2000万㌧だった国内炭は60年には5000万㌧を超え、炭鉱は最盛期を迎えた。

 一方で、50年代は中東で次々と巨大油田が見つかり、1バレル=1㌦という低価格の石油が大量に輸入され始めた時代だった。戦後オイルメジャーのエクソンモービルと提携した石油元売りの東亜燃料工業(現東燃ゼネラル)元社長の中原伸之氏は、「原油1㌦時代になり、量の確保から“豊富かつ低廉な石油”の確保に目的が変わった」と当時を振り返る。

 通商産業省(現経済産業省)は当初、石炭産業を守ろうと保護政策を打ち出すが、産業用エネルギーの石油シフトはすさまじい勢いで進んだ。国内炭生産がピークにあった60年に同省に入り、炭鉱の衰退を目の当たりにした安藤勝良・元通産省大臣官房審議官は、「石炭は経済合理性で石油に勝てなかった」と話す。日本のエネルギー政策は「炭主油従」から「油主炭従」に変わった。

 さらに廉価な海外炭が入ってきたことで炭鉱は次々と閉鎖された。安藤氏は「日本の石炭会社はノウハウを持っていた。もっと早く商社と組み海外炭鉱開発に乗り出すべきだった」と悔やむ。だが三井三池闘争など炭鉱の労働争議で疲弊した石炭会社にその余力は残っていなかった。

 豊富な石油が重化学工業を拡大させ、日本は高度成長期に入る。国内総生産(GDP)の増加に伴い石油の消費量も急速に伸びていった(図)。54年に年間石油消費量はわずか900万㌧だったが、73年には同約1億7000万㌧にまで増えている(日本の石油消費量のピークは99年の1億9000万㌧で、その後は減少傾向)。日本は年率で10%超の石油消費増が続く。「大量生産・大量消費」が肯定された時代だった。

 また、50~60年代は原子力も登場した。復興期、慢性的な電力不足に陥った日本では、核エネルギーの平和利用、すなわち原子力発電への道が模索された。中曽根康弘衆院議員(当時)が中心となり、54年に原発関連予算を成立させた。49年にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や、共同研究者だった武谷三男、坂田昌一といった科学界のリーダーたちも、この当時は原子力を肯定的に捉えていた。

 当時、東京大学の学生として武谷らの思想に触れた小沼通二・慶応大学名誉教授は「武谷は原子力を資源小国の日本に必要なエネルギーと考えた。半面、政府主導の原子力研究を懸念していた」と話す。冷戦下、米露は水爆の実験競争を繰り広げていた。武谷らは規制なしには原子力が軍事転用されかねないと考えた。