2015年

8月

11日

特集:戦後70年 日本経済の歴史と未来 2015年8月11・18日合併号

建設工事が着々と進む東京タワー(1958年)
建設工事が着々と進む東京タワー(1958年)

◇Part1 これまでの70年


 戦後、経済で輝いた日本

 バブル崩壊が転換迫る


 戦後の70年間を振り返ってみると、焼け野原となった敗戦の1945年から、日本は驚異的なスピードで復興を遂げていった。

 敗戦からわずか11年後の1956年、経済白書は「もやは戦後ではない」と書いた。14年後の1959年には東京オリンピックの開催が決まる。1964年、日本は戦後19年でアジアで初めてのオリンピックを開いた。同年には東海道新幹線も開通。時速210㌔、3時間10分で東京─新大阪間を結ぶ。現在欧州や中国の都市間輸送で高速鉄道は大きな役割を担うが、日本の技術がその先陣を切った。

 54年から始まった高度成長は、オイルショックの73年まで続く。68年にはGNP(国民総生産)で世界第2位となる。70年には大阪で万国博覧会を開き、敗戦から大きく変わった日本を世界にアピールした。70年までで戦後25年。まだ人々の記憶に戦争の傷痕は深く残っているものの、車社会の到来、冷蔵庫やクーラーなどさまざまな電化製品の普及で日常生活は一変し、快適なものへと変わっていった。

 ◇1㌦=360円時代の終わり

 

 日本経済が戦後順調に発展を遂げていったのは、日本人の勤勉な労働や技術革新など理由は多々あるが、戦後1㌦=360円の固定為替レートが維持され、戦後まもなくはともかく、高度成長期以降は経済の実勢から離れた「円安」になっていたことも見逃せない。

 しかし、71年8月15 日のニクソン・ショックによって、その後は変動相場制になり、円はほぼ一貫して強くなる方向へ向かう。さらに、85年9月22日のプラザ合意によって「円高」は決定的になる。1㌦=240円程度だった為替レートは、1年半で一気に150円程度まで上昇。輸出企業は大打撃を受け、急速な為替変動がいかに恐ろしいかを、日本人の頭に刷り込んだ。

 一方、ニクソン・ショックから2年後の73年10月に起きた第1次オイルショックも、日本人の生活に大きな打撃を与えた。原油価格が4倍に急騰。発電用燃料でもある石油の消費を抑えるため、政府は国民に節電を呼びかけた。夜は日本中から街の明かりが消えた。それまで中東産の安い原油を享受し、高度成長を謳歌してきた日本人は、一転して石油供給断絶の不安におびえることになった。オイルショックは日本人に「資源小国」であることを改めて痛感させ、省エネへと向かわせた。とりわけ産業界は、石油価格上昇によるコストの増加を抑えるため、さまざまな省エネ技術を生み出した。

 プラザ合意による円高ショックを意外にも早く乗り切った日本経済は、80年代後半は大活況を呈した。だが、これが戦後の高度成長から長く続いた「昭和の繁栄」の最後の宴であった。

 時代は平成に移り、89年12月29日の大納会で、日経平均株価は3万8915円87銭の史上最高値を付けてこの年の取引を終える。翌90年から株価は下げ始めるが、市場関係者の間では「上げ方が急ピッチだっただけに少しの調整はあるだろう。売りをこなせば再び4万円を目指す……」という見方が大勢だった。

 これがのちに「バブル崩壊」と呼ばれ、現在に至るまでの長い停滞の始まりになるとは、誰も予想していなかった。

 冷戦崩壊と時を同じくした日本のバブル崩壊から、すでに25年が経過している。この25年で、パソコンや携帯電話などが普及しIT面では大きな進歩があったが、人々の日常生活は、戦後から70年大阪万博までの25年間と比べると“変化度”ではおとなしい。それは日本経済の成熟化を示すものなのかもしれない。

東日本大震災の大津波で建物の屋根の上に打ち上げられた観光船(2011年)
東日本大震災の大津波で建物の屋根の上に打ち上げられた観光船(2011年)

 ◇1000兆円の借金背負う

 

 バブル崩壊後、停滞する日本経済に活力を取り戻すため、政府は数々の総合経済対策、緊急経済対策を打つ。日銀は99年にゼロ金利政策に踏み切った。しかし、大きな効果を発揮できたとは言えず、むしろ公的債務を累増させ、国の借金は1000兆円を超えるに至る。デフレ経済は債務返済をさらに苦しくさせた。現在は黒田東彦日銀総裁による量的緩和政策で、インフレへの転換と景気浮揚が図られている。

 日本は戦後、日米安保条約の下、安全保障にはおカネをかけず、ひたすら経済成長の道を突き進んだ。だが、その目標はバブル崩壊とともに失ってしまった。冷戦崩壊で世界は真の「グローバル化」に向かう中、日本は新たな立ち位置をいまだ見つけられずにいるようだ。

(平野純一/大堀達也/花谷美枝・編集部)