2015年

9月

01日

吉川洋に聞く「世界の低インフレは何を意味する?」2015年9月1日号

 ◇原油安と賃金下落が物価抑制

 ◇デフレと実体経済は別 


 世界各国で低インフレが続いているのは、何を意味しているのか。長年デフレの研究をしている東京大学大学院の吉川洋(よしかわひろし)教授にこの疑問を投げかけた。


(聞き手=後藤逸郎/谷口 健/藤沢 壮・編集部)

 

 いま世界で起きている低インフレの原因に対して、私自身も明確な回答を持っていない。ただ、示唆的なのは原油価格だ。日本では、石油の値段が上がっていた2013年末から14年初に全国消費者物価指数(CPI、2010年=100)の上昇率が1・5%前後まで上がった。しかし、その後、原油価格が下がって物価も下がった。

 この現状は、英国の経済学者ブラウンとポーランドの経済学者オズガが1955年に出した論文を思い出させる。2人は「英国の物価動向を決めているのは交易条件だ」と主張した。つまり、1次産品価格が工業製品価格に比べて下がる時には、英国内の物価も下がる傾向にあり、反対に1次産品価格が相対的に上がる時には国内物価も上がるとした。

 もちろん、この理論をいまの経済学者が一蹴するのは簡単だ。1次産品と工業製品の価格の関係は「相対価格」であり、「絶対価格(貨幣価格)」の変化である物価の変動、つまりインフレやデフレの説明にはならないためだ。米国の経済学者フリードマン(1912~2006年)はこの理論でかつて、「オイルショック(石油危機)でもインフレにならな い」と主張した。理屈としてはありうるが、現実には原油価格の高騰が名目物価の上昇要因に寄与したのは否定できない。いまも、事実として原油価格が物価動向に影響を与えている。

 低インフレの重要な原因は、賃金にもある、と私は考えている。日本だけでなく米国や欧州でも賃金が上がりにくい状況が続いている。

 1989年の冷戦終結からの25年間を考えると、旧東側諸国などの安価な労働力が西側の経済圏に入り、2000年代は、ブラジルやロシア、インド、中国、韓国などが経済力をつけた。そのなかで、日米欧はそうした新興国と競争しないといけなくなった。労働者は経営者から「失職か賃金減額か」という要求を受け、労働側が後者を選ばないといけなかった。こうした賃金削減やコストカットを一番極端に実行したのが日本で、経済停滞の一つのコア(原因の中核)になった。欧州や北米でも多かれ少なかれそのプレッシャーが出てきている。

 つまり、乱暴にまとめれば、「労働供給が大きく増えて賃金は下がる→賃金が下がっているから物価が上がらない→だから低インフレになる」。この25年間をすべてそれで説明はできないだろうが、こうしたメカニズムも働いているだろう。


 ◇19世紀英はデフレで好景気


 そもそも物価の動向と実体経済の動向は別物だ。一般論としても物価と実体経済は同じではない。もちろん、ハイパーインフレや激性のデフレなど、物価が景気に悪影響を及ぼすこともある。しかし、過去の200年の資本主義の歴史を振り返ると、だらだらと続くマイルドな(穏やかな)デフレや低インフレがすべて悪かったわけではない。過去に何度もあったデフレ時に、実体経済は良い時もあったし、悪い時もあった。

 最近、国際決済銀行(BIS)のクラウディオ・ボリオ金融経済局長たちの歴史研究で、マイルドなデフレが必ずしも実体経済の悪さとは対応していないと結論付けた。

 例えば、19世紀。当時最先進国の英国は、大ざっぱに言うと100年間デフレが続いた。19世紀前半は、英国がナポレオン戦争(1803~15年)に勝ち、その後30年間はだらだらとしたデフレが続いた。でも、実体経済は絶好調。ビクトリア王朝(1837~1901年)のビクトリア女王のもとで世界の覇者としての英国を確立した。

 19世紀後半は、大英帝国が当時の新興国である米国やドイツに追いつかれてくる。......

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