2015年

9月

01日

特集:本当は怖い物価大停滞 2015年9月1日号

中国の輸出に暗雲(Bloomberg)
中国の輸出に暗雲(Bloomberg)

 ◇世界で定着する低インフレ

 ◇構造問題を抱える日米欧中


小林 卓典(大和総研経済調査部長)


 世界各国で定着する低インフレが世界経済に暗雲を漂わせている。

 米国では米連邦準備制度理事会(FRB)が物価指標として重視している個人消費支出(PCE)デフレーターの上昇率が、2012年5月から3年以上にわたり目標値の2%を下回っている。6月は前年比0・3%と、わずかな上昇にとどまった。ユーロ圏のインフレ率は、14年12月から15年3月まで続いたマイナス圏を脱したとはいえ、7月も0・2%とデフレリスクを完全に払拭できてはいない。日本はデフレ脱却に一定の成果を収めたが、2%の物価目標までの距離をどのように縮めるかが課題となっている。

低インフレで冷える世界経済

 こうした低インフレの背景にあるのは、減速が続く世界経済だ。ギリシャ危機はまだ完全に終息したとは言いにくいうえ、中国では実体経済の悪化と不安定化する株式市場が懸念されている。さらに今後は米国の利上げという重要な政策イベントが控えている。

 国際通貨基金(IMF)は7月の経済見通しで、15年の世界成長率を0・2%ポイント下方修正し、実質成長率を3・3%とした。10年以降で最も低い数字だ。また、15年の先進国におけるインフレ率見通しは、0・4%上昇の予想から引き下げ、0%とした。原油価格下落の影響が大きいとはいえ、リーマン・ショック後、09年の0・14%をさらに下回る見通しである。

 こうした世界的な低インフレと景気減速のなかで目立っているのが世界貿易の停滞だ。

 08年のリーマン・ショックで大きな打撃を受けた世界貿易は、主要国が財政・金融政策を全面的に発動した09年から10年初めにかけて、いったんはV字型で回復した。しかしその後、世界貿易の伸びは勢いを失っていった(図1)。


 それをオランダ経済政策分析局(CPB)の世界貿易モニターに基づき、地域別の輸出数量で確認すると、先進国では02~07年、年率5・3%のペースで増加したが、リーマン・ショック後のV字回復を経て、11年から直近にかけては年率1・3%と、急ブレーキがかかった格好だ。新興国では、02~07年の輸出数量が年率11・2%増とハイペースで伸び、輸出主導の高成長を実現させたが、11年以降は、同4・2%の伸びに大きく減速した。その結果、世界全体の輸出数量の伸び率は02~07年の7・7%から、11年以降は2・7%へと、3分の1程度に縮小した。

 こうした世界貿易の停滞と低インフレには密接な関係がある。ひとことで言えば、世界経済がリーマン・ショックを経て、低インフレと低成長へ移行し、長期停滞の症状を見せ始めているということだ。


 ◇緊縮財政が足かせ


 では世界貿易の停滞や低インフレを生んだ要因は何なのか。一つは主要先進国が歩調をそろえて緊縮政策に転換したことである。

 リーマン・ショック後の08~09年、米国や英国で開催された20カ国・地域首脳サミット(G20)の主要テーマは、一貫して「世界金融危機からの脱却と回復」であり、財政・金融政策による強力な刺激策が各国の協調の下で実施された。

 しかし、危機が徐々に終息に向かい、回復への道筋が見え始めた10年6月のカナダでのサミットでは、「先進国は、13年までに少なくとも赤字を半減させ、16年までに政府債務の対GDP比を安定化または低下させる財政計画にコミットした」と、早々と緊縮財政に方向転換することが確認された。これによって、積極的な財政出動による景気下支えをできなくなった主要先進国は、量的緩和(QE)など非伝統的金融政策への依存を必然的に深めていくことになる。

 その後、主要国の経済成長率は加速することなく、12年にはスペイン、イタリアに財政危機が飛び火。欧州の不況が深刻化した。その余波で日本は12年4月から短期的にせよ景気後退に陥ることになった。

 世界経済の減速に警戒感を強めたIMFは12年10月、「緊縮財政が従来考えられていたよりも大きな悪影響をもたらす可能性がある」と警鐘を鳴らした。そして、10~11年のデータに基づいて推計された先進国の財政乗数の平均値が約0・5から、リーマン・ショック後には0・9~1・7に上昇し、従来よりも2倍から3倍程度の大きさになっているとした。つまり、GDP比1%相当の財政支出削減は、財政乗数が0・5の場合はGDPを0・5%押し下げるが、それが0・9~1・7%に拡大し緊縮政策が大きな景気抑制効果をもたらす可能性があるということだ。

 しかし、主要先進国は緊縮策を堅持する姿勢を基本的に変えず、特にユーロ圏の一貫した緊縮財政へのこだわりが、結果的に南欧周縁国の景気回復を不必要に遅らせてきたとの印象は否めない。

 しかし、ユーロ圏では「緊縮財政が短期的には経済成長を抑制するとしても、中長期的には財政への信頼回復が経済成長率を高めるのか」という議論が決着しておらず、その是非をめぐる社会的な実験が今も続いている。


 ◇中国減速の影響は大

 世界貿易の停滞や低インフレを生んだ背景には、中国経済の想定を超えた減速の影響も大きい。昨年から停滞感を強めていた世界貿易は、今年に入って一段と不透明感を増している。その変調の原因は、やはり中国経済の減速にある。

 日本では、4~6月期の財・サービス輸出が前期比4・4%減と落ち込み、実質GDPは前期比マイナス0・4%(年率換算でマイナス1・6%)と3四半期ぶりのマイナス成長に沈んだ。アベノミクスの誤算の一つは、円安が進行したにもかかわらず輸出が伸び悩んでいることだ。

 ただし、輸出の不振は日本だけにとどまらない。今年に入って、日米独など主要先進国では、ドルベースの輸出額が軒並み前年割れした状況が続いている。新興国も同じような状況にあり、韓国、台湾、シンガポール、タイ、さらに自国通貨が大幅に減価したインドネシア、トルコ、ブラジル、ロシアといった資源国など、多くの新興国に輸出不振が広がっている。

 中国の高成長の原動力は、固定投資(公共投資、住宅投資、設備投資の総計)の“異常”とも言える伸びによる爆発的な供給能力の拡大にあった。それによって喚起された需要が各国の輸出と資源価格を押し上げ、米国と並び中国が世界経済を牽引する役割を果たしてきた。

 しかし、リーマン・ショックを経て、中国の過剰投資が表面化。固定投資の伸びは傾向的に低下していった。不動産市場の調整が過去になく厳しくなった今年上半期(1~6月)の中国のドルベース輸入額は15・5%減と、半期ベースとしては09年上半期以来の2ケタのマイナスを記録した(図2)。中国の輸入減少は、輸出と設備投資の減少を通じて貿易相手国の景気に対して、必然的に下押し圧力を加える。

 しかし、中国経済の減速の影響はそれにとどまらない。中国の内需が低迷するほど、過剰生産能力を解消する手段として輸出に注力し、輸出圧力が高まることになるためだ。

 たとえば、内需の低迷に直面した中国の製鉄企業は、海外市場に生産回復の活路を見いだしている。昨年の中国の鉄鋼輸出量は約9400万㌧と、記録的な規模に達したが、今年上半期の鉄鋼輸出量は5200万㌧を超え、年間では日本の鉄鋼生産量に匹敵する1億㌧を突破する勢いだ。鉄鋼価格は世界的に値崩れを起こし、海外の製鉄企業の業績を圧迫している。

 これは一例に過ぎず、中国経済の想定以上の減速が続けば、その国内の供給過剰を解消しようとする圧力は、直接的・間接的に各国に波及し、低インフレ、低成長をさらに長期化させる可能性がある。

 中国が世界経済を牽引する力を失いつつあるとすれば、米国頼みの様相がさらに強まることになる。だが、米国経済の状態も万全ではない。労働市場のスラック(余剰資源)は雇用増加によって着実に減少しているはずだが、過去の回復期と異なり賃金上昇率は加速していない。米国経済が利上げに耐えられる体力を回復したと判断できるかどうか、懐疑的にならざるを得ない。

 今後、中国経済の減速によって世界的に需要不足の様相が強まるとすれば、主要先進国で低インフレ、低成長の傾向は続かざるを得ない。また、各国の緊縮財政が続く限り、金融政策に依存せざるを得ず、世界経済が再加速する決め手に欠く状況が続くだろう。

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