2015年

12月

08日

ワシントンDC 2015年12月8日特大号

 ◇有力政治家が人前で涙

 ◇泣く男を受け入れ始めた米社会


三輪 裕範

(伊藤忠インターナショナル会社ワシントン事務所長)


 横浜市の傾斜マンションで、問題のくい打ち工事をした旭化成建材の親会社、旭化成の浅野敏雄社長が最近、記者会見で涙を見せた。かつて山一証券が倒産した時に、同社の野沢正平社長が記者会見で号泣(ごうきゅう)したことも記憶に新しい。それが号泣か、頬をぬらす程度かどうかは別としても、日本では政治家も企業経営者も、人前で涙を見せること自体に、あまり抵抗はないようだ。

 一方、米国では、人前で涙を見せることは、日本よりもはるかに許容されない行為である。特に政治家にとっては、自らの政治生命を断ち切るにも等しい行為であった。「人前で涙を見せるような気弱で軟弱な人間に、政治のような重大事は任せられない」と考えられてきたからだ。

 こうした政治家の涙に関して特に有名なのが、1972年の大統領選の序盤で起きた「マスキー落涙事件」である。当時、民主党候補の中で最有力だったエドマンド・マスキー上院議員が、ニューハンプシャー州での演説中に涙を見せたとして、新聞やテレビで大きく取り上げられ、批判された事件だ。マスキー上院議員は、これが契機となって有権者からの支持を急速に落とし、大統領選からの撤退を余儀なくされた。

 しかし近年は、政治家の涙に対する米国人の否定的な見方が徐々に変わりつつあり、有力政治家の中でも人前で泣く人が多くなっている。


 ◇「マッチョ文化」に変化


 今年9月には、フランシスコ・ローマ法王が米国民の熱狂的な歓迎を受けて訪米し、米議会で演説をした。その際、演説を行う法王の後ろの席に座っていたジョン・ベイナー下院議長が、感極まって涙を見せる場面があったのだ。

 この時のベイナー氏の涙の理由については、「ローマ法王が演説する時点で、既に下院議長を辞任することを決めていた(実際、その翌日に辞任を発表した)からだ」「熱心なカトリック教徒であるベイナー氏が、下院議長としてローマ法王を議会に迎えることに感激したからだ」などと、さまざまな説が流れている。理由はどうあれ、人が演説している時に下院議長が涙を見せるなどといったことは、まさに前代未聞であった。

 人前で涙を見せる政治家の中で、最も驚かされるのはオバマ大統領である。オバマ大統領は、2008年の大統領選の投票日前日に1回、12年の大統領選の投票日の前後にも2回、支持者や選挙スタッフの前で涙を見せているのだ。

 12年12月にコネティカット州の小学校で起きた銃乱射事件の際の記者会見でも、「この種の悲劇が、あまりにも多い」として涙を見せた。以前であれば、大統領が人前で涙を見せるなどということは到底考えられなかったが、今ではメディアでも、さほど大きなニュースとして取り上げられなくなっている。

 政治家以外でも、人前で泣く人が急増している。スポーツ選手や芸能人、さらには一般市民に至るまで、最近の米国では、男性が人前で涙を流すケースが非常に目立つようになってきた。そして、それが以前のように、批判の対象として否定的に捉えられるのではなく、むしろ、その人の人間性や優しさを表すものとして、肯定的に受け入れられるようになってきたのだ。

 これまでの米国社会は、力強いことに至高の価値を置く「マッチョ文化」が優勢であり、人に弱さを見せてはならない、まことに厳しい社会であった。そして、それが時として、個人に不自然な虚勢を張らせることにもつながった。

 人前で涙を流すことに対して、より寛容になってきた米国社会が、個人にとってどこまで優しい社会になれるか、今後が注目される。(了)

この記事の掲載号

週刊エコノミスト 2015年12月8日号 表紙 TPP

週刊エコノミスト 2015年12月8日号


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