2016年

5月

24日

追悼:石井久・立花証券元社長 2016年5月24日特大号

 ◇スターリン暴落当てた兜町の風雲児

 

和島英樹

(ラジオNIKKEI記者)

 

 石井久さんの足跡は二つある。一つは投資家としての側面。もう一つは証券業界での経歴である。

 投資家としての石井さんは戦後のインフレ時に反物などへの投資を行い、その後はほぼ一貫して株式投資で財をなした。証券会社の外務員時代、無給の新聞記者時代、さらには証券会社の経営者になってからも的確な相場見通しを基に利益をあげた。

 

 1923年、福岡県大野村(現大野城市)に生まれた石井さんは、小学校を出た後に鉄工所勤務を経て弁護士を目指して上京。警官を経験した後に、株式投資に進路を切り替え、48年、25歳で証券会社の歩合外務員となる。歩合外務員とは、客の売買で発生した委託手数料に応じて給料をもらう証券マンである。

 この間、戦後のインフレを反物を売買してしのぐなど相場観を磨いてきた。外務員として働く一方で、自らも株式に投資した。現在の証券会社の社員は、株式売買が規制されているが、当時はむしろ「売買したことのない者にマーケットを語る資格はない」という時代だった。外務員時代に知り合ったエコノミストの高橋亀吉氏との出会いが、経済の知識を深めるきっかけになった。

 

 ◇独眼流の的確な予想

 

 外務員の傍ら、49(昭和24年)年8月から創刊間もない株式新聞社(現モーニングスター)に記者として入社した。しかし、外務員だった石井さんは「専属にならないので、給与はいらない」「編集を任せてもらう」という条件もつけた。

 紙面では「独眼流」のペンネームでコラムを掲載。その年のドッジデフレ(戦後不況)での株価下落や翌50年6月からの朝鮮戦争による株価上昇などを的確に予想した。記事や講演での見通しの確かさを背景に、『株式新聞』の部数も急拡大し、ピークには部数が12万部と創刊当初の20倍に膨らんだ。筆者が株式新聞に在籍していた80年代後半は日本がバブル経済に沸いて、部数も伸びたが、当時の先輩は「石井さんが在籍していた時の部数には届いていない」と語っていた。いかに投資家が石井さんを熱狂的に支持していたかがわかる。

 独眼流の名声をとどろかせるコラムが掲載されたのは53年2月11日、「桐一葉・落ちて天下の秋を知る!」である。それまで熱狂していた株式市場に、朝鮮戦争の和解の動きを見た石井さんは、わずかな前兆からその後の株価下落を予想した。

 記事の掲載を巡っては、社内でも議論になったというが、「退却ラッパを吹く」ことを、記者を引き受ける条件としていた。実際にコラムを読んだが、感情的に売り抜けろという内容ではなく、経済状況を分析した冷静な記事だった。3月、ソ連のスターリンが死去し、休戦会談の再開提案などを背景に株価は暴落する。のちに命名された「スターリン暴落」である。記事の掲載後、約2カ月でダウ(日経平均)は38%の下げになった。この記事が評判を得る一方で、相場を壊した張本人などの誹謗(ひぼう)中傷を受けた。これを契機に記者生活に終止符を打った。

 直後に石井株式研究所を設立し、個人投資家に情報を発信。そして同年9月に江戸橋証券を設立し、57年には東京証券取引所正会員だった立花証券を買収。投資情報誌『立花月報』を創刊し、石井社長の相場観測を顧客に伝えていった。

 江戸橋証券のスタート時に13人だった社員数は立花時代のピークに1000人以上(現在は520人)となり、財務の健全性で業界トップクラスに成長した。後の証券不況や、オイルショック、バブル崩壊も乗り切ってきた。規模の利益は追わず、立花証券では昔も今も自己売買部門、すなわち会社のお金で相場を張る部門の比重は極めて低いという。

 石井さんが一貫していたのは、歩合外務員時代も、記者時代も、証券会社のオーナーになってからも、個人投資家に向き合っていたことである。現在の証券会社は株式よりも収益が安定する投信や保険などの販売に力を入れている。そうした風潮をどう思うか、一度、直接石井さんに聞いてみたかった。証券界にとって不世出の人物が逝ってしまった。

 

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 ■人物略歴

 ◇いしい・ひさし

 1923年福岡県筑紫郡大野村(現大野城市)生まれ。53年3月に石井株式研究所を設立、同9月に江戸橋証券を設立。57年に立花証券を買収、社長、会長を歴任し、2000年取締役相談役、11年取締役を退任。16年4月22日死去。