2016年

5月

31日

特集:経済は物理でわかる 2016年5月31日号

◇第1部 変わる経済学編

◇ビッグデータが覆す経済の常識

◇実証科学の視点から理論構築へ

 

松本惇/中川美帆/後藤逸郎

(編集部)

 コンピューターの発達に伴いビッグデータを分析する「人工知能」が注目を集めている。米グーグル傘下の人工知能囲碁プログラム「アルファ碁」が人間のトップ棋士を破ったことは世界に衝撃を与えた。
 同じことはビジネスでも起きている。日立製作所の人工知能「H」は、ホームセンターの客単価を15%増やした。情報端末により客と従業員の動きをビッグデータとして解析し、店内の要所に従業員がとどまる時間を長くすることで、客が足を止めて買い物する機会を増やした。
 小売業では、従業員の作業や客の流れを「動線」として考えてきた。しかし、専門家も「H」のような手法を見つけることはできなかった。
「H」はさらに、経営や経済学の常識も覆す。
「H」はコールセンターのオペレーターの動きや会話をセンサーで分析し、客への売り込みに成功する割合が、休憩中の会話の活発さと関係があることをつかんだ。検証実験として、休憩時間の会話を活発化させようと、同世代の4人が同時に休憩を取るようにしたところ、休憩中の活発度が10%以上上がり、受注率は13%上昇した。顧客の問い合わせに対応する別のコールセンターでも、最大20%も生産性が向上した。
 これまでの経営の常識は、オペレーターの熟練度が生産性に影響するとの考えだった。また、現在の主流派経済学は人々が合理的に将来を予測して経済活動を行う「合理的期待モデル」を唱える。いずれも標準的な経済主体の活動しか想定しない考え方だ。
 だが、人ならぬ身の「H」が、経営者や経済学が度外視してきた「人の気持ち」こそ、経済行動に大きく影響していることを見つけた。皮肉なことだが、経済学の大きな契機でもある。

◇数式優先で現実と乖離

 

「見えざる手」で市場の調節機能を唱えたアダム・スミスの登場以降、経済学は経済活動の科学的な解明に苦心してきた。物理学の手法をなぞり、数式を取り入れることで活路を見いだそうとした。
 だが、経済は変動要因が無数にあり、再現性は乏しい。物理学をはじめとする自然科学のような実証実験も難しかった。コンピューターが未発達で、ビッグデータもない環境において、主流派経済学は、条件設定によってモデル化した「マクロ計量モデル」を土台に経済法則の解明を目指した。
 だが、モデルを数式で証明することを優先するあまり、ともすればモデルが成立する条件設定下でしか説明できない矛盾を招き、経済学は現実から乖離(かいり)するきらいがある。経済理論を権威化し、批判を許さない風潮も学界に広がり、米経済学界の大物、ニューヨーク大学のポール・ローマー教授は主流派経済学の数式モデル偏重に警鐘を鳴らす。サイエンスライターのマーク・ブキャナン氏も「主流派経済学の数式モデルは、理論上の証明はできても、現実世界には適用できない」と指摘する。
 実際、リーマン・ショック後、世界の中央銀行は主流派経済学の理論にのっとり、金融緩和を繰り返すが、インフレ率は上がらない。中銀が社会実験に失敗し、醜態をさらしたのも、主流派経済学と無関係ではない。
「実験結果」を受け入れられず、政策対応を変えられない。モデル化に拘泥した既存の主流派経済学の理論は「実験結果」を明快に説明できないでいる。
 だが、コンピューターの発展とビッグデータの蓄積は、モデルではない経済実体そのものの分析、理論の検証に道を開く好機だ。人工知能「H」を開発した日立製作所研究開発グループの矢野和男技師長は「データがなくても、いくらでも理屈は作れるが反証することができない。学問は反証することで発展するが、経済学はデータがないことで演繹(えんえき)的なアプローチしか取れず、帰納的に実証することができなかった」と分析する。

 

◇情報の大航海時代

 

 こうした時代の転機は物理学にもあった。権威や宗教に縛られていた物理学は、大航海時代に実証主義へと転じる。欧州にない産物を転売して巨万の富を得ようとする健全な経済的欲求が、船の位置を正確に知る意欲を生み、惑星の動きを観察する望遠鏡を発明し、聖書から離れた実証的な天文学の再構築を促したのだ。
 当時の船長の日誌には、三角関数のような数字が羅列され、星の位置から数学的な計算をして船の正確な位置を推定しようとしていたことがうかがえる。いわば大航海時代の船長は、現在のコンピューター開発者と同じ最先端技術者だったのだ。
 経済的欲求と技術革新の組み合わせは、ビッグデータも同じだ。ソニーコンピュータサイエンス研究所の高安秀樹シニアリサーチャーは「かつての望遠鏡や顕微鏡に相当するのが今のビッグデータ。新しいツールが社会を大きく変えるという意味で、今の状況は大航海時代と非常に似ている」と指摘する。東京大学大学院の大西立顕准教授は「経済学は詳細なデータが観測できなかったため、概念・理論を重視してきた。日々の経済活動に関する多様で詳細な情報が高頻度に記録されるビッグデータ時代になり、実証科学の視点から理論を再構築することが可能になってきている」と見る。
 ビッグデータという情報の大海原の先には、まだ見ぬ知性の大陸が待ち構えている。実証主義を取り入れ、一段高いステージへと飛躍する経済学こそ、21世紀を知の大航海時代へと導く可能性を秘めている。(了)

(『週刊エコノミスト』2016年5月31日号<5月23日発売>18~20ページより転載)

この記事の掲載号

定価:620円(税込)

発売日:2016年5月23日