2016年

8月

30日

追悼:豊田泰光・元プロ野球選手 2016年8月30日特大号

 ◇「昭和の名遊撃手」

 

濱條元保

(編集部)

 

 また一人、「昭和の名選手」が逝った。元プロ野球西鉄ライオンズ(現西武)内野手で、評論家の豊田泰光さんが8月14日、81年の生涯を閉じた。

 シャイなあまのじゃく、斜に構えているが、男気がある孤高の野球人──。豊田さんと交わした会話やお酒を思い出すと、「昭和の名選手・名評論家」の姿が浮かぶ。

 1952年、茨城・水戸商業高校で夏の甲子園に出場。翌53年に立教大学への進学が決まっていたが、父親が倒れ6人兄弟の長男として一家を養うために西鉄に入団した。「俺が進学していたら、(1歳下の)長島(茂雄、元巨人)の立教入りもなく、今の長島はなかった」と笑い飛ばした。

 高卒ルーキーでいきなり、守備の要である遊撃を任された。1年目に45エラー。名将・三原脩監督から「下手くそ! やめてしまえ」と自軍ベンチからやじが飛ぶと、「そんな下手くそを使っているのは誰だ」と、豊田さんはグラウンドから怒鳴り返した。

 ふてぶてしい新人だったが、自分のエラーで負けた53年4月12日。宿舎へ戻ろうと乗り込んだバスの中から先輩に蹴り出された。「辞めて田舎に帰りたかった。しかし、それでは兄弟を食わせられない」と涙をこらえて、猛練習。1年目に放った27本塁打は、清原和博(元西武など、86年に31本)が破るまでの新人記録である。以来、不動の2番・遊撃手となる。

 平和台球場でファンからやじられると、逆ににらみ返したという武勇伝は、「下を向いていたら飛んでくるビール瓶をよけられないから」と、ちゃめっ気たっぷりに語った笑顔が忘れられない。

 相手の気持ちを察したり、ファンの大切さは三原監督から学んだ。試合前、三原さんはベンチ前に選手全員を集め、回れ右させ、観客席を見させたという。「トヨ(三原さんの豊田さんの呼び方)、今日は何人ぐらい入っている?」と、よく三原さんから豊田さんは聞かれた。「ファンあっての野球。球場に足を運んでもらえる価値ある試合をやれ」という意味と豊田さんは解釈した。

 監督やコーチになりたいあまり、厳しい指摘ができない「待機組OB」と違い、ユニフォーム(監督、コーチ)への未練を断ち切った「評論家・豊田」の舌鋒(ぜっぽう)は鋭かった。ベンチのサインを徹底したり、守備位置まで細かくコーチが指示する管理野球は特に性に合わない。「高校野球でもあるまい。プロなら選手自身が考えてプレーしろ」と吐き捨てた。

 球団を引き継いだ西武が、西鉄時代の功労者や記録を大事にしないことに対する怒りは凄まじかった。豊田さんの訴えが通じ、2012年に名投手で盟友の稲尾和久さんの背番号24が球団初の永久欠番に。その記念試合に全員が「24」をつけた西武ナインの姿に豊田さんは涙した。

「今のようなプロ野球は、なくなったほうがいい」。近鉄とオリックスの合併が急浮上した2004年、本誌に吐露した豊田さん。野球を愛してやまない男のあまのじゃくな心の叫びは悲痛だったが、野球愛が詰まっていた。合掌。