現金が消える日 先進国で高まる現金廃止論

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櫨浩一(ニッセイ基礎研究所専務理事

 

『国家は破綻する~金融危機の800年』で金融危機は繰り返し起きるという警告を発した米ハーバード大学のケネス・ロゴフ教授は、近著(“The Curse of Cash”Princeton University Press 2016)で、現金を高額紙幣から段階的に廃止することを提言している。

 

現金を利用し続けると、違法取引や脱税を助長するというデメリットが大きいことを理由として挙げている。確かに犯罪映画やスパイ映画で悪者が取引を行うシーンに出てくるのはアタッシュケースいっぱいに詰まった紙幣だ。現金がなければ、お金を受け取ったり使ったりするには、自分の口座を使って資金を出し入れするしかないから、簡単に捕まってしまうだろう。

 

欧州中央銀行(ECB)は、5月に500ユーロ紙幣の発行を2018年末で停止することを決めた。高額紙幣がマネーロンダリング(資金洗浄)に悪用されているとの懸念が高まっていることや、テロや犯罪の資金源を絶つことが目的とされている。ECBは500ユーロ札の発行を停止することで高額取引から現金を排除し、将来的には廃止してしまおうとしているとも言われている。欧州では、現金による高額取引を制限している国も少なくない。

 

 

これまで紙幣を増発してきた各国の中央銀行・政府が紙幣を廃止しようという方向に動き始めた背景には、違法取引や脱税の防止だけではなく、マイナス金利政策への対応やフィンテック(金融とITの融合)の普及という外部要因がある。

 

◇マイナス金利の効果押し上げ

 

現金の廃止には、欧州や日本で始まったマイナス金利政策を強化するという意味がある。昔の教科書には、金利はマイナスにならないと書いてあったが、それは現金があるということがその理由だった。仮に預貯金にマイナス金利が適用されるような事態になれば、多くの人が引き出して現金で保有しようとするため、効果は小さくなってしまうだろう。

 

しかし、現金がなくなってしまえば、そんなことはできない。最初に紹介したロゴフの現金廃止論の真の目的は、米国がマイナス金利政策に追い込まれた時の準備にある。

 

ユーロに参加していない北欧のスウェーデンやデンマークでは、ユーロ圏からの資金流入を防ぐためにマイナス金利政策を実施しているが、クレジットカードやデビットカードによる支払いが普及して急速に現金の利用が減っている。スウェーデンでは、市中にある現金の残高自体が減少を続けている。

 

ところが、日本では、逆に現金の残高は急速に増加している。1990年ごろまではほぼ一定の比率だった現金の名目GDP(国内総生産)比は、金融緩和が強化され出した90年代末ごろから急速に上昇を続けており、2割近くに達している。超低金利政策でタンス預金が大幅に増加するなどのためで、マイナス金利拡大の際には現金保有の抑制が大きな課題となるだろう。

 

 

◇フィンテックの普及

 

仮想通貨のビットコインに使われているブロックチェーンは、フィンテックの代表的技術の一つだ。ビットコインが登場した際に、これまで各国の中央銀行・政府が発行してきた通貨に取って代わることになるのではないかという議論が沸き起こった。ビットコインのような仮想通貨の利用は拡大してはいるが、今のところ従来からある通貨を駆逐してしまうほどのことは起こっていない。

 

しかし、フィンテックをスマホを使った金融サービスや電子マネー、さらにデビットカードやクレジットカードも含めた非常に広い意味でとらえれば、これらの技術は経済に大きな影響を与えている。

 

現金が増え続けている日本でも電子マネーによる支払いは急速に増えている。多くの人がSuica(スイカ)やPASMO(パスモ)といった交通系の電子マネーを使って自動改札を利用するため、大きなイベントの後に切符を購入するために駅の券売機に長蛇の列ができるという光景は見かけなくなった。

 

スーパーやコンビニでも電子マネーで支払いをしたり、ポイントを使って小銭の支払いを避けたりすることは増えている。14年に消費税率を引き上げた際に、お釣りが不足するという予想から1円玉の発行枚数を大幅に増やしたものの、実際には流通量は減少してしまった。

 

日本では欧州のように高額紙幣が使われなくなるのではなく、少額の取引で硬貨が使われなくなるという形で現金の使用が減っている。財布が小銭でいっぱいになるのは重いし、財布が膨らんでポケットに入れにくいからだろう。

 

現金の利用が減少し最終的に消滅してしまうことで、経済にはどのような変化が起こるだろうか。

 

支払いのために現金を持ち歩く必要性がなくなるので、これまでに比べれば経済活動を円滑に行うのに必要なお金の量は減る。銀行の支店は現金を取り扱わなくなり、現金の受け払いを行うATM(現金自動受払機)も不要になる。夜間金庫や現金輸送車はなくなってしまうし、未解決事件の代名詞でもある三億円強奪のような事件は起こらなくなる。

 

スーパーや飲食店での支払いは、クレジットカードやデビットカード、スマホや電子マネーだけになり、店のレジの中からお金は消え、お釣りを計算する必要もなくなる。

 

財布はカード入れとして生き残るかもしれないが、小銭入れはなくなってしまうだろう。消費者の生活の中で、お金の受け払いに関わるシーンは様変わりすることになる。

 

実は経済全体でみれば、現金の役割は現在でも意外に小さい。16年10月時点で、日本のマネーストックM3(現金、定期預金、外貨預金、譲渡性預金、金銭信託)の残高は1267兆円だが、現金通貨は92・2兆円しかなく、銀行の当座預金や普通預金などの預金通貨580・8兆円と、定期預金などの準通貨562・7兆円が大宗を占めている。

 

 ◇1万円札が消える日

 

企業の取引にかかわる何億円、何十億円という単位の資金の授受は、小切手や手形、口座間の送金などで行われるのが一般的で、何か後ろめたい話でも絡んでいない限り、現金が支払いに使用されることはまずないはずだ。

 

現金がなくなった世界では、中央銀行の行う金融政策の有効性が失われてしまうのではないかという声もあるが、筆者は基本的に銀行決済を使う形で現金が消滅するのであれば、現在とほとんど変わらないはずだと考える。

 

しかし、ビットコインのような新しい通貨が、現在の円やドルといった中央銀行が発行している通貨に取って代わる場合には話は全く異なる。フィンテックの普及で日本国内の取引の多くが、米ドルで行われるようになる可能性も指摘されているが、このような場合も日銀の行う金融政策は大きく制約されることになるだろう。

 

日本では大量の硬貨を受け取ることは拒否できるが、法律で日銀券(紙幣)は無制限に受け取らなくてはならないことになっている。だが、いずれ欧州のように紙幣による高額の支払いが制限されるようになるかもしれない。

 

バブル景気の最中には、1万円札よりももっと高額な紙幣の発行が必要だという議論もあった。しかし、5万円札や10万円札が発行されることはなく、むしろ1万円札のようなお札が消えてしまう日は遠くないだろう。

(櫨浩一・ニッセイ基礎研究所専務理事)

*掲載 2016年12月13日号