自然利子率を低下させる副作用=白井さゆり〔出口の迷路〕金融政策を問う(4)

「お金を借りて経済活動に使った方が得」という状況を作ることが緩和の目的だったが、実現は遠のく一方だ。

 

白井さゆり(元日銀審議委員、慶応義塾大学教授)

 

 日本銀行が2013年4月に非伝統的金融緩和政策を開始して、4年半が経過した。この間、日銀は大量の資産買い入れ、マイナス金利、イールドカーブ・コントロール(長短金利操作)を相次いで実践してきた。

 

 そもそも、このような前例のない金融緩和を実践した目的は何か。主に二つある。

 

 一つは、実質長期金利を大きく下げて、「今、お金を借りなければ損」という状況を作り出し、消費、住宅投資、設備投資を拡大することで需給ギャップを改善しつつ、インフレ率やインフレ期待を引き上げていくことにあった。

 

 もう一つは、金融機関、企業、家計のリスク回避行動を払拭(ふっしょく)し、銀行借り入れ、株式・不動産投資、企業買収、対外投資などが拡大することで経済を活性化することだ。すなわちポートフォリオ・リバランス(資産再配分)を促す狙いである。

 

 日銀は、これらの目的を果たしたと主張する。実際はどうだろうか。

 

 ◇長期金利低下に限界

 

 まず、実質長期金利は、名目長期金利と長期インフレ期待の差にほぼ等しい。このため、実質長期金利を引き下げていくには、名目長期金利を引き下げるとともに、インフレ期待を引き上げる必要がある。

 

 しかし、これまで明らかになったことは、名目長期金利の低下に限界がある一方で、インフレ期待はほとんど上昇しなかったため、実質長期金利がどれほど下がったのか疑問が残ることである。

 

 名目長期金利については、異次元緩和を始める前の10年物国債利回りが1%弱だったが、開始後にマイナス0・3%程度まで低下した。16年7月以降は上昇し、同年9月のイールドカーブ・コントロール導入後は0~0・1%のあたりで推移している。

 

 10年利回りを0%程度でくぎ付けする政策を日銀が導入したのは、名目長期金利がマイナスの領域で推移すると金融機関などの収益への打撃が大きく、金融システムの安定性を損なう恐れがあったからである。つまり、名目長期金利に下限があることを示すきっかけとなったと言える。

 

 一方、インフレ予想については、当初こそは上昇した指標もあったが、その後の上昇はみられない。

 

 図1は、インフレ予想の動向を示している。家計はもともとインフレ率が将来かなり高くなると予想する傾向があるため、インフレ予想の水準が高い点には留意が必要だが、金融緩和がほとんど影響していないことは明白である。企業のインフレ予想も原材料価格に反応しており、上昇傾向はない。エコノミストの予想も当初は上昇したが、上昇傾向はない。

  以上のことは、非伝統的金融緩和手段が実質長期金利を引き下げる手段として限界があることを物語っている。

 

 もう一つのポートフォリオ・リバランスについても、確かに株価や不動産価格は上昇したが、銀行、企業、家計がリスクテークを高めたとは言いがたい。

貯蓄性向は高まっている
貯蓄性向は高まっている

 銀行については、貸し出しは年率2~3%のペースで増えているものの、預金の伸び率には到底追いつかないため預貸率はむしろ低下しており、日銀の想定とは逆に、ますます銀行のカネ余りが進んでいる。

 

 家計と企業の貯蓄が急増しており、借り入れをしてまで生産的活動を拡大する状況にないことがわかる。家計は、相変わらず資産の半分以上は預貯金に配分しており、株式は売り超のままで積極的な株式投資は少ない。

 

 また、銀行は日銀に国債を売却した資金を当座預金に滞留させており、総資産に占める貸し出しや対外投融資は活発ではない。

 

 ◇経済の“基礎体温”を下げる

 

 このように日銀が目指す二つの目的は、想定したほど実現していない。しかも、それに加えて非伝統的金融緩和は、経済活動の“基礎体温”とも言える「自然利子率」を下押ししている可能性がある。

 

 自然利子率は、景気を過熱させも冷やしもしない中立的な金利水準のこと。経済学的には、完全雇用の状態で貯蓄と投資を等しくさせる均衡実質金利と定義される。

 

 黒田東彦総裁は、緩和の目的として自然利子率の引き上げを挙げており、これは金融緩和の目的として世界の中央銀行に共通している。ところが、日本では逆に作用している恐れがある。

 

 どういうことか。自然利子率は、構造的要因と一時的な景気循環的要因とに分類できる。長く影響が続くとみられる構造的要因が重要で、(1)潜在成長率、(2)貯蓄と投資が及ぼす要因、(3)国際的要因に大きく分けられる(図2)。

 自然利子率は推計しなければならず、日銀はいくつかの手法を用いて、昨年9月段階の自然利子率は0%程度とみなしている。

 

 まず、(1)の潜在成長率は0・7%前後と推計されている。したがって、自然利子率0%との乖離(かいり)0・7%分が、(2)と(3)の要因で説明できると考えられる。

 

 (2)については、例えば、日本では労働者の高齢化や専業主婦などの労働参加が進んでいる。所得が増える分、貯蓄も増えるので自然利子率には下押し圧力がかかる。

 

 また、リスク回避的な企業・家計が多いなかで、前述のように非伝統的金融緩和でカネ余りが進めば、貯蓄が増えて投資が減るので、自然利子率の低下に拍車がかかる。

 

 さらに、国民の所得不平等が拡大すれば、自然利子率は低下する。なぜなら、低所得者層は所得の大半を消費に回さなければならないので貯蓄性向が低い一方で、高所得者層は所得の多くを貯蓄に回せるので貯蓄性向が高くなるため、格差が拡大すると社会全体の貯蓄が増えるからである。日銀の金融緩和によって株価や不動産価格など資産価格が上昇し、富裕層に恩恵が大きいとすれば、これも自然利子率の低下に寄与する。

 

 (3)の国際的要因としては、新興国が外貨準備資産の増えた分を世界投資すると、日本を含む世界の貯蓄が増えることになり、自然利子率が低下することなどが挙げられる。世界金融危機以降の長引く世界経済の不確実性も投資意欲を減退させている。

 

 13年以降、貯蓄の国内総生産(GDP)比率は上昇するなかで、投資のGDP比率は横ばいである。このような状況下で自然利子率はマイナスとなっている可能性さえある。

 

 今後の潜在成長率が少子高齢化によって一段と低下する場合、自然利子率もさらに低下していく可能性がある。となると、低下する自然利子率よりも実質長期金利を下げて金融緩和状態を作るためには、日銀は、副作用が大きく経済・物価を押し上げる効果が限定的であったとしても、非伝統的政策手段を使って実質長期金利を低水準に抑える努力を長く続けなくてはならないことになる。

 

 日銀の金融緩和の出口がみえない理由が、ここからもみえてくる。

(白井さゆり・元日銀審議委員、慶応義塾大学教授)

◇しらい・さゆり

 1963年生まれ。89年慶応義塾大学大学院修了。93年コロンビア大学経済学部博士課程修了(経済学博士)。93年国際通貨基金(IMF)エコノミスト、98年慶応義塾大助教授を経て2006年から教授。11年4月~16年3月日銀政策委員会審議委員を務める。16年から現職。近著に『東京五輪後の日本経済』。


週刊エコノミスト2017年10月31日号掲載