ネットが夢から覚める時 記事の質に対する責任の真空地帯=法政大学社会学部メディア社会学科准教授・藤代裕之

藤代裕之(法政大学社会学部メディア社会学科准教授)

 

ふじしろ・ひろゆき1973年生まれ。96年徳島新聞社入社。司法・警察、地方自治などを取材。2005年NTTレゾナントでニュースデスクや新サービス立ち上げを担当。13年から現職。著書に『ネットメディア覇権戦争』など。


 いまやネットメディアと既存のマスメディアとの違いは溶けている。新聞などに加え、テレビもネット上で配信を始めた。あらゆるメディアがネット化している。

 

 ネット化で何が変わったのか。記事や映像の制作と、それが読者や視聴者に届くまでの流通が分離したことが大きい。これまで朝日新聞の紙面には、朝日新聞が制作した記事しか載っていなかった。ネット上でプラットフォームは、フリーマーケットのように多種多様な記事を並べている。誰が制作したものなのかはよく分からず、実はユーザーもあまり気にしていない。

 

 新聞通信調査会の2017年の世論調査によると、ネットニュースを見る時にニュースの出所を気にする人は42.5%、気にしない人が57.1%だった。

 

 既存メディアは、誰が作った記事なのかを重視してきた。朝日新聞に載っている記事は、朝日新聞社が品質を保証している。だが、ネット上に並ぶ記事は制作元がバラバラで、ユーザーは品質を意識しないまま読む。そこに品質の低い情報や不正確な情報が入り込んでいる。

 

 プラットフォームはこれまで、単に記事を並べる場所を提供しているだけだとして、情報の「目利き」をユーザーに委ねてきた。既存メディアは品質をアピールする経験がなく、ネット上でその努力をしてこなかった。責任の真空状態のなか、ユーザーが不利益を被っている。

 

 これまで「メディアリテラシー」として教えられてきたのは、事実に対する見方や意見はメディアによって違うと認識することだった。だが、今起きているのは、その情報自体が間違ったものではないかと疑わなければならない事態だ。求められるリテラシーが変わったが、それは根づいていない。

 

 記事を制作するメディア側は、自分たちが制作した記事を、適切な方法と適切な値段で読者に届けるよう努力することだ。プラットフォームは記事の信頼性を担保し、フェイクニュースを排除する必要がある。

 

 ◇見たいものしか見ない装置

 

 いまやニュースを得る手段として、ネットのポータルサイトが紙の新聞を上回っている。これまでマスメディアが負ってきた社会的責任を、ネットメディアも引き受けなければならない。

 

 ネット上でプラットフォームはユーザーの興味、関心に応じて記事を表示する。そのため、「見たいものしか見ない」という状態が生じている。「フィルターバブル」と呼ばれるものだ。

 

 立場や意見が違う人たちが合意形成して社会を作っていく民主主義社会において、マスメディアにはさまざまな意見を載せる役割がある。単なる多数決に陥らないために、少数意見もクローズアップして議論の場を作るという調整機能を果たす。

 

 ところが、ネットという「見たいものしか見ない」装置が出来上がると、自分とは違う意見があることを知らない人が増えていく。そのような人が、新聞には自分と違う意見が載っていると知ると、新聞が嘘だという。ネットが民主主義を壊そうとしている。

 

 ネットでは個人が情報を発信し、社会的なムーブメントが生まれると言われる。だがその基には、真偽があいまいな情報が十分に検証されないまま拡散する構造がある。

 

 これまでネットに携わる人々は、インターネットが良いものをもたらすという夢を見てきた。その楽観主義はもう限界だ。現実に起こっている問題を正面から受け止め、情報空間を再構築しなければならない時に来ている。

 

*週刊エコノミスト4月24日号「ネットメディアの視点」

寄稿一覧