「リフレ理論も政策も正しい、だが逆風で時間がかかる」=岩田規久男[出口の迷路]金融政策を問う(34)

 3月に日銀副総裁を退任した岩田規久男氏は、大胆な金融緩和によるデフレ脱却を主張する「リフレ派」の中心的存在として5年間、異次元緩和を進めてきた。その帰結をどうみるのか、聞いた。

岩田規久男(前日銀副総裁 )

── 当初、「2年でインフレ率2%」を掲げたが、現時点では達成時期も見通せていない。


 岩田 一番の問題は、日銀の金融政策は完全にリフレのレジーム(枠組み)に転換したのに、財政政策は2014年4月の消費税率引き上げで緊縮的になってしまい、リフレレジームが壊れたことだ。
  リフレレジームとは、物の値段が下がり続けるデフレを止めて、2%程度の緩やかな物価上昇をもたらすような政策を指す。金融政策が中心だが、財政政策など需要に影響する政策を含めて、全体として物価を上げるような枠組みになっていなければならない。


  最初の1年目は想定通りの展開だった。まず、「リフレレジーム」に転換した日銀による大量の長期国債を中心とする資産買い入れが、株高を引き起こし、為替市場では円安をもたらした。株や外貨建て資産を持っている人に対して、資産効果が働き、消費が大きく伸びたのが1年目の特色だ。


  我々が重視していた予想インフレ率も順調に上がり、消費者物価(除く生鮮食品)前年比は、13年3月のマイナス0・5%から、14年4月には1・5%まで2ポイントも上がった。遅くとも14年8月には2%に達するスピードで、2年以内に目標を達成できると思った。


  消費増税について、安倍晋三首相は自民党総裁選に出る前に、「デフレから脱却しない限りやらない」と述べていたので、私はそのつもりでいた。ところが結局実施され、財政政策が需要を圧縮したため、とたんに物価が上がりにくくなってしまった。


── 消費増税の影響はそんなに大きいのか。


 岩田 増税の需要下押し圧力は、私が心配していた以上に強く、かつ長引いた。1997年に消費税率を3%から5%に引き上げた時と比べて、はるかに強かった。この背景には、20年も続いたデフレ下の低成長の下で、非正規雇用が増えて低所得者層が多くなったことと、少ない年金しかもらえない年金世代が全世帯の3割以上に増えたことがあった。彼らは消費増税に最も弱い人たちで、消費を減らすしかなかった。


  リフレレジームで大事なのは、人々に「これからはひょっとしてインフレになるのではないか」と思わせることだ。そうでないと、資産を現金で持っている方が得だと考える行動が変わらない。それを変えるためには、ロケットが成層圏から出る時のような脱出力が必要だ。せっかく金融政策でロケットを打ち上げたのに、財政が急に緊縮したため、ロケットの推進力が大幅に減殺されてしまった。


  もう一度、デフレマインドに戻ってしまうのを食い止めなければならず、14年10月に大規模な追加緩和を行った。

 

◇幻の100兆円

 

── 金融政策がリフレレジームに占める割合は、考えていたより小さかったということか。


 岩田 いや、小さくはなかった。13年4月からの5年間(60カ月間)で、消費者物価(除く生鮮食品)前年比が0%以下になった月数は18カ月間しかなく、70%に当たる42カ月間は0%超のプラスだ。それに対して、13年4月以前の15年間は、74%の月数が0%以下のマイナスだった。つまり、以前の日銀の金融政策を続けていたら、今でもインフレ率がマイナスのデフレが続いていたということだ。

 

 しかし、消費増税の消費に対する負の影響が非常に強く、さらに、原油価格(ドバイ)が14年6月の1バレル=108ドルのピークから急落し始め、16年1月には27ドルへと75%も低下した。原油価格急落の過程で、日本だけでなく、欧米主要国でもインフレ率はマイナスになったことを認識すべきだ。

── さらなる緩和は考えなかったのか。

 


 岩田 14年10月の追加緩和で、予想インフレ率は下げ止まって、上がってきた。物価の基調(生鮮食品とエネルギーを除く消費者物価)は崩れていなかったので、しばらく様子を見ることにした。しかし、消費増税で消費が弱っている下で、原油価格が下げ止まらなかったため、生鮮食品を除く消費者物価(消費増税の影響を除く)前年比は、15年8月からの3カ月間はマイナス0・1%にまで低下した。日本では長い間デフレが続いたため、足元のインフレ率が低下すると、予想インフレ率も低下してしまう。消費の前年の落ち込みからの回復も弱く、日経平均株価も2万円割れになった。


  15年10月ごろからずっと、さらに追加緩和した方がいいかどうか悩んでいた。様子を見ていたが、中国経済の停滞で輸出が伸びず、16年入り後は株価は下がり、それにつれて、円高になった。株安・円高では、デフレマインドが強まる。デフレマインドが強まることを止めるためには、追加緩和が絶対に必要だと思ったのが16年1月だ。


  追加緩和の手段として、私は日銀の国債買い入れ額を年間80兆円から100兆円台に拡大することを考えた。だが、必ずしも私の思う通りの政策ができるわけではない。金融政策を決める政策委員会メンバーのなかにはいろいろな意見がある。金融政策決定会合で賛成多数となるものが日銀の金融政策になる。


  そこで出てきた案がマイナス金利だ。日銀の企画局を中心に欧州での導入事例を研究していて、理論的にも実証的にも効果があると考えられた。ところが、日本では庶民の銀行預金の金利もマイナスになるというような誤解もあって、非常にマイナスイメージで捉えられた。理論的には円安・株高になるはずだったが、数日後から逆方向に進んでしまった。これはコミュニケーションの失敗だった。


── 16年9月、日銀は金融政策の目標を量から金利に切り替えるイールドカーブ・コントロール(長短金利操作)を導入した。岩田さんも賛成し、国会での答弁で「私の考えも進化した」と述べた。進化とはどういう意味か。


 岩田 「リフレレジームへのチェンジ」は人々の物価予想をデフレからインフレに変えようとするものだ。既に、消費増税で「リフレレジーム」は毀損(きそん)されていたから、量を拡大しても、人々の予想インフレ率を引き上げる力はあまり期待できない。量と2%達成への強いコミットメント(約束)だけではなかなか予想インフレ率が上がらないなか、需給ギャップを改善して足元の物価を上げるというように思考が変わった。


  日銀のスタッフは、イールドカーブ(長期と短期の利回り曲線)がどういう形状であれば需給ギャップを縮めるのに役に立つかという研究を進めていた。これは世界的に始まっていた研究だ。非伝統的金融政策では短期の政策金利を動かすだけでなく、長期国債を購入することでイールドカーブ全体を下げるからだ。「リフレレジーム」が毀損された状況では、量を拡大した場合よりイールドカーブ・コントロールの方が需給ギャップに対する効果が大きいというシミュレーションの結論には説得力があった。

 

◇日銀の優秀なスタッフたち

 

── リフレ派からは変節したとも捉えられた。


 岩田 日銀内リフレ派と、日銀外リフレ派では情報量に差がある。日銀の外にいるリフレ派がイールドカーブ・コントロールの研究を独自に進めるのは難しい。日銀には研究能力が高いスタッフが大勢いる。世界のトップレベルの論文を読み、さまざまな計量分析の手段を持っている。説得力や信頼性が高い。日銀の執行部が替わって「できるだけ早く2%目標を達成する」ことが最重要課題になったから、そのための研究が盛んになった。その成果がマイナス金利とイールドカーブ・コントロールだ。


── 現在の日本は景気がよく、雇用も改善しているので、2%の物価目標にこだわらなくてもいいという意見がある。


 岩田 世界標準の物価目標が2%のなかで、日本が仮に1%にすると、長期的には円高傾向が続く。そのため、製造業は日本からどんどん出ていくだろう。日本はデフレが長く続き、デフレリスクが非常に大きい。いったんデフレになったら脱却するのは非常に難しいことが分かったはずだ。デフレに陥らないための「のりしろ」としてもインフレ率を上げておかなければならない。


── 日銀の金融政策が出口に向かうのは2%を達成してからなのか。


 岩田 出口は2%を安定的に達成してからだ。既に雇用が改善しているというが、失業率を2%台前半まで引き下げ、もっともっと人手不足にすることで、設備投資や研究開発投資が起きてくる。これからはAI(人工知能)やロボットの時代だ。人手不足が潜在成長率を高めるチャンスを作る。予想インフレ率が2%で安定した段階で金利を緩やかに上げていくのが、出口だ。


── イールドカーブ・コントロールの導入で国債買い入れ額は減っている。これをステルス・テーパリング(ひそかな緩和縮小)と言う人がいる。


 岩田 そうではない。ただ、結果的に買い入れ額が減って、出口はやりやすくなっている。米国の出口でも、バーナンキ元FRB(米連邦準備制度理事会)議長がちょっとテーパリングに言及しただけで、国際金融市場が大混乱に陥った。それほど金融市場はコミュニケーションが難しい。


  私が日銀副総裁になって一番難しいと思ったのは、コミュニケーション、それも民間エコノミストの発言を基にしたジャーナリズムだ。日銀の政策がどう解釈されて伝わるかで効果が変わってしまう。

衆院予算委員会に参考人として出席した岩田氏(左、当時日銀副総裁)と黒田東彦総裁(2016年1月)
衆院予算委員会に参考人として出席した岩田氏(左、当時日銀副総裁)と黒田東彦総裁(2016年1月)

◇辞任しなかった理由

 

── 就任時に「2年で2%に達しなかったら辞任する」と国会で答弁しながら、辞任しなかった理由は。


 岩田 何度も同じ質問をされるが、私はそうは言っていない。国会では、「どういう責任をとればいいのかはよくわからないが、最高の責任のとり方は辞任だ」と言ったので、「2年で2%に達しなかったら、その理由が何であれ、直ちに辞任する」とは言っていない。


  責任のとり方は、責任の所在によって違う。消費増税や原油価格下落の下でも、2年で2%を達成できるような代替策があったのであれば、私の政策選択の誤りのために2年で2%に達しなかったことになる。その場合は、最高の責任のとり方である辞任を選ぶ。これは責任のある立場にある人にとっては、当たり前の話ではないか。


  ところが、日本では、どれほど自分に責任があっても辞職しないのが普通のため、私の発言が珍しがられて、「最高の責任のとり方」という部分を飛ばして、「2年で2%に達しなかったら(達しなかった理由がどうであれ)辞任する」と言った、という報道や批判が絶えないのは、はなはだ遺憾だ。


  私が言いたかったのは、自分は職に拘泥しておらず、報酬や名誉のために副総裁を務めるわけではないということだ。元々、13年3月末で大学を定年退職した後は好きに暮らそうと思っていた。20年以上もの間、デフレを放置してはダメだと言い続けてきたのに、日本の多くの学者やエコノミストたちは日銀を批判せず、政策金利がゼロになると、金融政策には物価を引き上げる力はない、という金融政策無効論を主張し続けていた。そのため、私は日本国民に絶望していた。


  副総裁に任命されても、なるべく早く、できれば2年より前に目標を実現させて辞めたいと思っていた。欧州ではインフレ目標をほぼ2年で達成している。しかし、量的質的金融緩和を始めて1年しかたたないうちに実施された消費増税と原油価格の長期にわたる大幅下落の下で、20年間も続いたデフレを2年で終わらせて、インフレ率を2%に引き上げることは、無理な話だ。


  今から思えば、原油価格の下落はどうしようもない外的要因だが、消費増税については、実施前に「2%を安定的に達成する前に、消費増税すれば、2年で2%を達成することは不可能だ」とはっきり言うべきだった。「日銀副総裁は、財政再建の手段に対しては、中立を守るべきだ」との信念から、中立を守ったことを悔やんでいる。


── 理論が間違ってはいなかったから、辞任しなかったということか。


 岩田 理論も、それに基づいた金融政策も正しかったと思っており、我々が採用した金融政策以外のデフレ脱却の金融政策はないと考えている。理論とそれに基づく政策の妥当性は、代替案との比較で評価されるべきもので、代替案のない批判は無意味だ。我々の金融政策は理論通りには進んでいるが、既に述べたさまざまな逆風が吹いて、2%の達成に時間がかかっている。


  さらに、国内総生産、実質雇用者報酬、失業率、有効求人倍率、正規社員有効求人倍率、新卒の就職状況、経済的理由による自殺者数の大幅減少など、どの指標をとっても、20年間も続いたデフレ期と比べれば、この5年間で大きく改善している。2%を達成しないことだけをもって、量的質的金融緩和やイールドカーブ・コントロール政策は失敗だと主張するのは妥当ではない。そもそも、2%の物価安定を目標にしているのは、これらの経済指標を改善するためであるから、我々が採用した金融政策は効果的だったといえる。
  今は、現状の金融政策が最適だと思っている。今後、大きなショックが起こればまた違ってくるし、増税も急いではいけないが、金融政策が「リフレレジーム」を維持し続ければ、時間はかかるが、インフレ率が2%に近づいていくことは間違いがない。

◇偶然が重なり副総裁に

 

── 自身が主張した政策を、執行部に入って実践する学者はまれだ。


 岩田 偶然がたくさん重なった。私は学者として本や論文を書いて世間に訴えることで日銀の政策を変えようとしてきた。だが、副総裁に就任する2年ほど前には、それでは全然効果がないと思うようになった。日銀の正副総裁や審議委員を選ぶのは首相で、国会で人事が承認されなければならない。国会議員に働きかけるのが早道だと気づいた。


  11年3月の東日本大震災の後、旧知の山本幸三衆院議員(自民党)が「増税によらない復興財源を求める会」を立ち上げ、会長に安倍晋三氏(現首相)が就任した。会合に呼ばれて持論を話すと、安倍氏が「(第1次)政権に就いていた時に知っていればよかった」と言ったことを覚えている。その後、他の有力な政治家たちにも話をする機会はあったが、ピンときたのは安倍氏だけだった。


  リフレ政策にただ一人、理解を示した政治家が12年9月に自民党総裁になり、さらに衆院が解散し、12年12月には首相の座に就いた。ちょうど13年3~4月は日銀正副総裁3人が任期満了を迎えるタイミングだった。これは、まぐれのようなものだった。世の中何が起こるか分からないと本当に思った。

 


 (聞き手=藤枝克治・本誌編集長)
 (構成=黒崎亜弓・編集部)

◇いわた・きくお


 1942年大阪府生まれ。66年東京大学経済学部卒業、73年同大経済学研究科博士課程単位取得満期退学。上智大学経済学部助教授を経て83年同大経済学部教授、98年学習院大学経済学部教授。2013年3月、日本銀行副総裁に就任。18年3月退任。著書に『デフレの経済学』、編著に『昭和恐慌の研究』など。