低インフレの要因は所得分配の偏り=河野龍太郎 〔出口の迷路〕金融政策を問う(39)

物価上昇が鈍い本質的要因を日銀が直視すれば、金融政策の抱える矛盾があらわになるだろう。

 

河野龍太郎(BNPパリバ証券経済調査本部長・チーフエコノミスト)

 

 物価上昇が遅れている。コアCPI(生鮮食品を除く消費者物価)は2月に前年同月比1・0%まで上昇した後、3月は0・9%、4月、5月は0・7%まで低下した。原油高の影響でかさ上げされた部分もあるため、エネルギーも除いた新型コアCPIを見ると、2月、3月に0・5%まで上昇した後、4月は0・4%、5月は0・3%まで低下している。今春の企業などの価格改定期は、需給ギャップ(国の経済全体の総需要と供給力の差)の改善もあり、賃金やインフレの上昇は加速するというのが日銀の当初の見通しだったが、むしろ反対に低下し、新型コアはいまだゼロ近傍から抜け出せない。


  6月15日の金融政策決定会合後の記者会見で、黒田東彦総裁は、次回7月末の決定会合の際、思うように上昇しない物価について、改めて検証すると述べている。なぜこのタイミングで、日銀が物価検証を行うのか。


  現在、日銀は2018年度のインフレ見通しを前年比1・3%としている。低迷する実績を踏まえると、見通し達成には、今後、年率2%を超える上昇が必要だが、それは不可能である。このため、7月の決定会合の際、インフレ見通しを引き下げざるを得ない。

 

 ◇物価検証で追加緩和論をけん制

 

  既に日銀は16年9月の総括検証発表以降、需給ギャップが改善していれば、インフレ上昇の遅れを理由に追加金融緩和に踏み切ることはしないという方針に転換している。しかし、問題は、新たに3月に就任したリフレ派の若田部昌澄副総裁がそれを受け入れるか、である。若田部氏は就任前、現状は追加緩和を求めないとしても、将来、インフレ見通しを引き下げることがあれば、追加緩和を提案する可能性があることをにおわせていた。


  それゆえ、日銀執行部は今回のインフレ見通しの引き下げについて、総需要の弱さによるものではなく、あくまでポジティブ・サプライショック(供給の拡大)によるものだから、追加緩和は必要ないと、若田部副総裁に了承してもらう必要がある。つまり、今回の物価検証の主たる理由は、インフレ上昇が遅れる中で、政策委員会内の追加緩和論をけん制することである。


  市場参加者の間には、別の解釈もある。物価上昇の遅れは、金融緩和の長期化を意味するが、マイナス金利政策や10年金利の0%誘導が長引くと、金融機関経営への悪影響がさらに大きくなる。経営困難に直面する金融機関が過大なリスクを取ったり、あるいは反対に融資を抑制したりしたのでは、元も子もなくなる。それゆえ、日銀が金融緩和のさらなる長期化を打ち出すと同時に、近い将来、副作用の大きな政策の微修正を行うという見方も少なくない。これは正論だが、政策委員会内に強固なリフレ派を抱える日銀にとり、喫緊の課題は、より大きな副作用をもたらす追加緩和へのけん制だろう。


  日銀は、賃金や物価の上昇が遅れる理由について、どう説明するのか。残念ながら、7月の「展望リポート」では、踏み込んだ分析はせず、一般論に終始すると思われる。なぜなら、問題を掘り下げれば、現在の政策が抱える矛盾があらわになるからである。日銀執行部にとり、今回の物価検証の目的はあくまで追加緩和をけん制することにあるのだから、一般論を超えて、賛同を得ることが難しい本質的な問題をあえて掲げるメリットはない。それでは、本質的な問題とは何か。

 


  まず、先進各国に共通する要因である労働分配率(企業が生んだ付加価値に占める人件費の割合)の低下傾向である。イノベーション(技術革新)やグローバリゼーションの影響で、労働生産性は上昇しているが、米国の例を見ても、平均的な労働者の取り分はあまり増えていない(図)。

労働節約的なイノベーションとオフショアリング(業務の海外移転)の結果、その果実を先進国で享受しているのは、資本やアイデアの出し手である。それゆえ、日米欧は完全雇用(非自発的な失業が存在しない状態)になっても賃金上昇が鈍く、インフレ上昇も遅れている。

 

 そのことは、所得水準が高く、所得に対して支出の割合が低い経済主体に所得増加が集中していることを意味する。マクロ経済全体では、貯蓄が積み上がり、設備投資で吸収することが難しくなる。理論的には、貯蓄と投資を均衡させる自然利子率が負の領域まで低下する。つまり、長期停滞に陥るため、その中で完全雇用に到達するには、バブルか、大幅な経常黒字か、あるいは大幅な財政赤字を醸成するしかない。


  事実、米国が完全雇用にあるのは、実体から大きくかけ離れた資産価格の高騰で総需要がかさ上げされているからであろう。ドイツが完全雇用にあるのは、GDP(国内総生産)比で8%もの経常黒字でかさ上げしているためである。日本が完全雇用にあるのは、GDP比で3%を超える経常黒字と財政赤字で総需要をかさ上げしているためだ。


  イノベーションやグローバリゼーションの影響に関し、日銀は、ネット通販の拡大という「アマゾン効果」で物価が抑えられていると論じているが、より本質的な問題は、労働分配率の低下ではないのか。本来、各国とも所得再分配で対応すべきところを、無理に金融緩和で対応しようとするから、実体経済からかけ離れた資産価格の上昇をもたらし、あるいは大幅な通貨安で持続不可能な巨額の経常黒字を抱え、あるいは財政規律の弛緩(しかん)で巨額の財政赤字を抱えている。しかし、現状の政策の否定につながりかねないため、そこまで踏み込んだ説明を日銀はできないだろう。

アマゾンに責任転嫁? Bloomberg
アマゾンに責任転嫁? Bloomberg

◇外国人労働が賃金上昇圧力を吸収

 

  日本固有の問題に目を向けると、弾力的な労働供給の増加が、賃金やインフレの上昇を抑制している。想定した以上に、高齢者と主婦の労働参加が進んだこともあるが、それだけではない。留学生や技能実習生など低スキル・低賃金の外国人労働の急増も、労働需給の逼迫(ひっぱく)に敏感な非正規雇用の賃金上昇を抑え込んでいる。


  過去5年間で外国人労働者は128万人に倍増したが、昨年11月には、技能実習生の滞在期間が3年から5年に延長された。人手不足に苦しむ産業界からの強い要請もあって、政府は、農業、介護、建設、造船、宿泊などの5業種を念頭に、さらに5年の滞在を容認する方針を打ち出し、事実上の外国人単純労働の解禁に踏み切る。


  昨夏から日銀は、完全雇用下で金融緩和を続け、総需要に強度の圧力をかけることで、賃金上昇や省力化投資を促すとしていた。しかし、この高圧経済戦略が実際にもたらしたのは、賃金水準の低い高齢者や主婦、低スキルの外国人労働の掘り起こしである。それらの弾力的な労働供給が賃金上昇圧力を吸収し、省力化投資の一部も代替している。


  高齢者や主婦の労働の掘り起こしにつながったのは望ましいと言えるが、果たして低スキル外国人労働への需要拡大を日銀が助長していることを手放しで喜ぶことができるだろうか。7月の物価検証では、外国人労働の急増はセンシティブな問題を含むため、日銀は触れることすらできないかもしれない。


  それでは、どのような金融政策が必要なのか。2%インフレ目標の旗は一度掲げた以上、信認の問題もあって降ろせないのは理解できる。とはいえ、無理な目標を達成しようと、さまざまな弊害を引き起こすのなら本末転倒である。まずは、2%インフレを長期目標として明確に位置付けるべきである。


  また、既に完全雇用にあるのだから、せめて副作用の大きい10年金利の0%誘導策やマイナス金利政策、ETF(上場投資信託)などの資産購入策は、早期に手じまいすべきであろう。高圧経済戦略は、経済に過度な負荷をかけ、さまざまな歪(ゆが)みや不均衡を作り出すだけである。
 

◇こうの・りゅうたろう


 1964年愛媛県生まれ。87年横浜国立大学経済学部卒業、住友銀行(現三井住友銀行)入行。89年より大和投資顧問(現大和住銀投信投資顧問)にてエコノミスト、米国駐在、運用担当を経て97年第一生命経済研究所。2000年11月より現職。共著に『金融緩和の罠』。