◆講評 日本の労働市場の実相を提示 丹念かつ緻密にデータを分析 選考委員長・樋口美雄
2017年度の「エコノミスト賞」の最終選考には、多様な分野から4冊の作品が残った。いずれも独自性にあふれた力作ぞろいであり、さまざまな角度から議論を尽くした結果、日本の正規・非正規雇用の労働市場の分析に正面から取り組んだ神林龍氏の『正規の世界・非正規の世界』に授与することを、選考委員会全員の総意として決定した。神林氏には心よりお祝いを申し上げたい。
神林氏は1972年生まれで、東京大学大学院経済学研究科に在籍時、故・石川経夫氏に師事した気鋭の労働経済学者である。本書は神林氏が大学院に在籍した以降の約20年間にわたる研究をまとめた集大成ともいえる。丹念かつ緻密なデータの収集・分析を積み重ねたうえで、日本の労働市場の実相やその背後にある構造変化を明らかにしようとした労作であり、学術的な水準もきわめて高い。440ページに及ぶ壮大なスケールで本書をまとめあげたその熱意と分析力に敬意を表したい。
◇自営業者の衰退を指摘
本書は序章・終章を除く計9章が、全3部に分けて構成されている。まず、第1部(第1~2章)では、「終身雇用」「年功序列賃金」「企業別労働組合」という日本の労働市場を特徴づける“鋼鉄のトライアングル”が、いかに形成されたかという歴史的経緯を説明する。特に第2章では「産業報国会」として各事業所に生まれた労使の安定的なコミュニケーションが、「労使自治の原則」として戦後に影響を及ぼした可能性など、日本的雇用慣行が幾多の淵源(えんげん)をもとに成り立ったことを指摘する。
第2部(第3~5章)は本書の核心部分であり、日本的雇用慣行が1980年代以降、どう変容したかを検討する。日本経済は90年代以降、「失われた20年」と呼ばれる低成長時代に入り、「日本的雇用慣行は崩れ去った」といわれることもある。しかし、厚生労働省の「賃金センサス」(賃金構造基本統計調査)などのデータを用いた本書の実証分析では、正規雇用の世界においては長期雇用や賃金カーブなど日本型雇用慣行のコアな部分は維持され続けていることを解き明かしている。
一方で、18~54歳の人口に占める就業形態別の構成比を見れば、確かに非正規雇用は増加しているものの、正規雇用の割合は低下していない。この“不釣り合い”な現象の背景として、筆者は自営業者や家族従事者など雇用関係を持たない「インフォーマル・セクター」の縮小があることを主張する。非正規雇用の増加は世間一般にイメージされる「正規からの代替」ではなく、インフォーマル・セクターが労使自治のシステムを持つ正規雇用に吸収されなかった、という指摘は非常にユニークである。
第3部(第6~9章)では、その結果として生じた賃金や職務内容(タスク)の格差、二極化について分析を展開する。賃金格差は男性で拡大傾向だが、女性は縮小傾向にあり、一般に喧伝(けんでん)されるほど格差は広がっていない。一方、比較的高賃金の仕事と低賃金の仕事がそれぞれ拡大し、タスクの二極化が進行したという。さらに、まだ緒に就いたばかりの自営業者の労働市場の実証研究にも取り組み、結論は留保しているもののその衰退の原因も探ろうとしている。
惜しまれるのは、近年、若年転職者の増加や中高齢層における年功賃金の変化が見られるが、それらが正規雇用の世界・非正規雇用の世界の変化とどう関連しているのか、必ずしも十分な考察がなされているとはいえない。また、自営業者の減少の多くは統計上、農業就業者や小売り・製造などの雇無業主(従業者を雇わず自分または家族だけの個人経営事業者)、家族従業者の減少などによって起こっており、非正規労働者の増加とどのような関係があるのかといった分析も必要ではないか、といった指摘も選考の過程で出された。
しかし、本書はともすれば印象論で語られやすい日本の労働市場の姿を、丁寧に実証したという意味で高い価値を有している。折しも、国会で同一労働・同一賃金などを盛り込んだ働き方改革関連法案が議論されるなど、日本の労働市場のあり方は広く社会の注目を集めており、実証的な労働市場研究はさらに重要性を増していく。今後いっそうの貢献も期待し、選考委員会は本書にエコノミスト賞を授与することを決定した。
◇介護の実態に取り組む
授賞には至らなかったが、中村二朗・菅原慎矢両氏の『日本の介護』も評価を集めた。介護の実態は経済学的な研究が少ない分野だが、介護保険制度などのミクロデータを用いて分析を試みている。高齢者の子どもとの同居率の低下は、子どものいない高齢者の増加により起きており、同居促進の支援をしても効果が期待できないことなど、興味深い結果が報告されている。ただ、介護保険制度の財政的な問題点は指摘されているが、具体的な提案など突っ込んだ議論を求める意見があった。
高島正憲氏の『経済成長の日本史』は、古代から明治初期(730~1874年)までの日本の経済発展の足跡を、歴史的資料の数量データから1人当たりのGDPを推計することによって取り組んだ異色作。徳川時代後半の鎖国の状況下でも持続的に成長していたことなど、注目すべき発見にあふれている。英経済学者マディソンの超長期推計方法を再検討し、日本で超長期GDP推計に挑む貴重な存在である。ただ現在の日本経済への示唆が乏しいとの指摘があり、選からは漏れた。
島澤諭氏の『シルバー民主主義の政治経済学』も最終選考に残った一冊である。投票の結果として人口の多い高齢者の優遇政策が採られることは「シルバー民主主義」と呼ばれるが、近年、若年者への支援を求める声が強まっており、日本の現状は単に低所得者ほど分配を求め、政治がそれに応える図式であることを示したことが評価された。そのうえで、むしろ高齢者・若年世代が結託して将来世代の富を収奪していると主張するが、論点を絞って整理すれば説得的に根拠を示せたのでは、との指摘があった。
◇エコノミスト賞選考委員
■委員長 樋口美雄(慶応義塾大学教授)
■委員 井堀利宏(政策研究大学院大学教授)/深尾京司(一橋大学教授)/福田慎一(東京大学教授)/三野和雄(同志社大学特別客員教授)/金山隆一(『週刊エコノミスト』編集長)