■講評 4作品残るも、一歩及ばず 重厚感ある書に期待
選考委員長 深尾京司
第61回(2020年度)のエコノミスト賞は、2回の選考会において議論が交わされた。最終選考には、伊藤亜聖氏の『デジタル化する新興国』、戸堂康之氏の『なぜ「よそ者」とつながることが最強なのか』、西沢和彦氏の『医療保険制度の再構築』、大橋弘氏編の『EBPMの経済学』の4作品が残った。多角的な議論を重ねた結果、残念ながら「授賞作なし」で委員全員の意見が一致した。
◇「新興国」「貿易」
選考で比較的高評価を得たのは、伊藤亜聖氏の『デジタル化する新興国』である。新興国は既存のシステムが貧弱だからこそ、新技術が活用できる(リープフロッグ現象)と優位性を指摘する一方、権威主義的な政府による技術乱用のリスクも分析している。また、援助政策などにおいて日本の採るべき道にも言及している。著者は気鋭の中国経済専門家だが、本書での分析対象はアフリカやインドなどにも及ぶ。
本書は特に以下の2点で優れている。
第一に、途上国内の格差拡大、デジタル面での保護貿易政策、フェイクニュース問題、などの分析が、開発経済学や情報通信技術に関する経済学を的確に踏まえている点である。
第二に、著者が訪れた新興国の様子も写真付きで紹介しながら、デジタルプラットフォームによる信用提供、IoT(モノのネット化)による農業や製造業のスマート化など、途上国で急速に進展するデジタル技術の活用について、豊富な事例やデータを用いて分析している点である。現行の新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)は、デジタル技術の普及や中国の更なる台頭など、終息後も経済社会のあり方を大きく変える可能性が高い。本書は、どんな新しい世界が我々を待っているかのヒントを提供している点でも、読んでいてスリリングであった。
しかし、新書というスタイルをとっていることもあり、著者自身の学術的な研究に基づく論考が少ないとの指摘が複数あった。今後、本格的な学術書を書かれることを期待したい。
戸堂康之氏の『なぜ「よそ者」とつながることが最強なのか』は、英国のEU(欧州連合)離脱や米中貿易戦争に代表される反グローバル主義に対して、著者自身の研究成果も踏まえて学術的に反論しており、タイムリーに書かれた本である。
遠隔地企業との取引が企業の成長にプラスの影響を与えるとの実証結果の紹介をはじめ、イノベーション・国際経済学の分野で多数の優れた業績のある著者ならではの論考が興味深かった。
ただし「マネー、モノのグローバル化」と「人のつながりのグローバル化」を一くくりに論じていることは、やや乱暴に思われた。本書では、グローバル化の利益を、ある企業が海外の企業や人材と接触することで新たな知識や技術を吸収して、イノベーションや創意工夫が起きることと説き、「三人寄れば文殊の知恵」に通じるとしている。この主張は経済学的な深掘りが足りず啓蒙(けいもう)書の範囲を超えていない、との指摘があった。
◇「医療」「EBPM」
西沢和彦氏の『医療保険制度の再構築』は、本来は受益と負担を対応させるべき公的医療保険において、少子高齢化の影響により均衡が崩れた現状を解説した書である。
日本の医療制度の問題点を、世界的視点から俯瞰(ふかん)して分析している点が出色である。たとえば、厚生労働省が公表するマクロの医療統計「国民医療費」は、医療保険の給付対象となった医療給付を合計したもので、予防接種のワクチン代や公立病院への公的補助などは含まれていない。最適な資源配分を考える際には“使えない”統計なのである。この問題は、日本の医療統計を経済協力開発機構(OECD)など国際機関が整備した、健康に関するマクロの費用統計体系「SHA(System
of Health Accounts)」にもっと準拠させれば解決できる、と指摘している。
各論は精緻で説得力があるものの、全体に通底する包括的視点が見えにくいのが残念との指摘があった。「あるべき医療保険制度」の政策提言もやや乏しい。著者の高い分析能力に基づいた、今後の政策提言に期待したい。
大橋弘氏編の『EBPMの経済学』は、大橋氏を含む7人の学者と同数の政策担当者(官庁の主に中堅官僚)がペアを組み、学者が教育や税制などの各政策分野についてEBPM(エビデンスに基づく政策立案)導入の提案や課題を指摘し、指摘に対して政策担当者がコメントするユニークな形態の書である。第一線の研究者たちが結集して経済学の新テーマに挑んできた、東京経済研究センター(TCER)主催の「逗子コンファレンス」の伝統を受け継ぐ、優れた企画である。
研究者による各専門分野での論考は説得力があり、本全体では広範なテーマをカバーしているため、EBPM問題の百科事典としても重宝しそうである。一方で、政策担当者のコメントのほとんどが、EBPMに消極的であることには失望した。米国の行政管理予算局のように、各行政機関の政策を評価・監視する強力で独立性の高い組織を作れなかった日本のEBPM改革は「あらかじめ失敗することが約束されていた」、と痛感するための書であったといっても過言ではない。14人の執筆者がかかわったことも、エコノミスト賞の趣旨とは異なると判断した。大橋氏はEBPM研究の第一人者であり、今後の単著を期待したい。
◇経済問題の総合分析を
今回が、第59回(18年度)に続いての「授賞作なし」に終わった原因として、若手による研究書の出版が少ないことが指摘できよう。エコノミスト賞は「経済論壇の芥川賞」をコンセプトとしており、原則として若手による優れた経済書を対象としている。
しかし、最近の経済学界では査読付き学術誌での論文刊行が主に評価されており、必然的に若手研究者は論文執筆に注力している。日本語の著作を出す場合も、出版社が「売れる」ことを重視するあまり、経済学を広く、浅く解説する新書やソフトカバーが多い。このような著書も経済学を世の中に広めるという点では意義があろう。しかし、最新の経済学を学んだ優れた若手研究者が、重要な経済問題を総合的に分析する研究書を出版することは、我々が直面する多数の経済課題を解決していく上で、必須であろう。来年は、重厚感ある経済書がエコノミスト賞を争うことを期待したい。
◇エコノミスト賞選考委員
■委員長
深尾京司(一橋大学経済研究所特任教授・JETROアジア経済研究所長)
■委員
井堀利宏(政策研究大学院大学特別教授)
鶴光太郎(慶応義塾大学教授)
福田慎一(東京大学教授)
三野和雄(京都大学経済研究所特任教授)
藤枝克治(『週刊エコノミスト』編集長)深尾京司(一橋大学教授)