第56回(2015年度)エコノミスト賞

『経済データと政策決定』

2016.04.05

 エコノミスト賞選考委員会は、「第56回(2015年度)エコノミスト賞」の受賞作に、小巻泰之著『経済データと政策決定』(日本経済新聞出版社)を選んだ。授賞式は4月20日に開催予定。小巻氏には賞金100万円と賞状、記念品を、出版元の日本経済新聞出版社には賞状を贈る。

 対象作品は15年1~12月に刊行された著書。読者アンケートや主要出版社の推薦作品を踏まえ、選考委員会で審査を行った。候補作は受賞作のほかに、中室牧子著『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、三重野文晴著『金融システム改革と東南アジア』(勁草書房)の3作品に絞られた。

 エコノミスト賞は、1960年に創設された。日本経済及び世界経済について、実証的・理論的分析に優れた作品に授与される。歴代受賞者からは多くの有為な人材を送り出し、「経済論壇の芥川賞」と称される。

小巻泰之(こまき・やすゆき)日本大学経済学部教授

 1962年生まれ。86年関西学院大学法学部卒、96年筑波大学大学院経営政策科学研究科修士課程修了、2001年同博士課程単位取得退学。86年日本生命入社。ニッセイ投資顧問、ニッセイ基礎研究所主任研究員などを経て、01年から日本大学経済学部助教授、04年から現職。


 専門はマクロ経済の実証分析、経済統計、景気循環論。単著に『入門 経済統計』(日本評論社)、共著に『期待形成の異質性とマクロ経済政策』(東洋経済新報社)など。

■講評

 樋口美雄・選考委員長

 2015年度のエコノミスト賞は、色合いの違った力作が多かったため、選考委員会では例年になく白熱した議論が展開された。最後には選考委員全員の投票によって、小巻泰之氏の『経済データと政策決定』に決定した。激戦を勝ち抜いた小巻氏に対し、心よりお祝いを申し上げたい。

◇速報値と確定値に乖離

 小巻氏の著書は、副題にあるように、経済統計の「速報値と確定値の間の不確実性を読み解く」ことを目的に、「リアルタイム・データ」を使って人々の意思決定や市場反応、政策の意思決定やその効果に与える影響を分析した研究書である。

 GDPや鉱工業生産指数などの経済データは、まずその即時性が重視され、限られた情報に基づき速報値が発表され、その後、いくつかの情報が追加され確定値に至る。この間、速報値と確定値にしばしば大きな乖離(かいり)が発生することは、日本でもよく知られており、それが誤った政策決定を導いているのではないか、という議論はこれまでにもあった。

 だが、海外ではリアルタイム・データの問題に関する研究蓄積は多いものの、日本では本格的な研究対象として取り上げられることは少なかった。本書は、日本を対象にこの問題を本格的・多角的に分析した最初の試みといえ、大変有意義なオリジナルな研究書である。

 リアルタイム・データによりマクロ経済政策を評価する場合、大きく分けて、統計データの不確実性、政策評価に対するギャップ、ショックの発生を政策当局が認識するまでの「認知ラグ」の3点を考慮する必要がある。

 本書ではまず統計データの不確実性について検討され、人々の意思決定は、より多くの情報に基づく精度の高い確定値ではなく、速報値に基づいて行われていることが実証される。加えて、速報値発表後、GDPや鉱工業生産指数はどの程度、なぜ改定されるかが紹介され、GDPギャップ(日本経済の需要と供給の差)が推計方法などにより、どの程度異なるかが示される。

 さらに、1990年代の財政政策に対する評価が速報値と確定値、あるいは推計方法によってどう異なるかが示される。速報段階では財政出動が確認できても、その後下方修正がなされ、結局は財政支出が減額されていたため、90年代の拡張的財政政策の効果は、実はそれ以前と比較しても低下していなかった。こうした推定結果は予算遂行をきちんと把握する必要性を示唆しており、政策的にも重要な意味を持っている。

 問題の発生から対策効果が発揮されるまでの時間の遅れは、「認知ラグ」のほか、認識から政策が発動されるまでの「実行ラグ」、政策が発動されてから効果が発揮されるまでの「外部ラグ」に分けられる。消費増税を例に取り、各種統計を用いて分析すると、どの時点でのGDPを使うかによって、消費増税に対する評価も影響されるという指摘は、研究者のみならず、政策担当者の関心を集める。

 さらに、ゼロ金利政策の解除と予測における不確実性の高まりが検討され、統計の精度・信頼性の問題が言及され、消費者物価指数の基準改定と予測可能性、さらにはデータ改定において、どこまで計測誤差、予測誤差が推計できるかが検討される。

 緻密かつ丁寧な分析により統計データの積極的開示やリアルタイム・データ整備などが必要であるという提言は、日本経済の実証分析の基本的な環境整備に関わる論点であり、まさにエコノミスト賞の対象にふさわしいと判断され、全選考委員が推薦した。

 ただしその半面、それだけ重要な統計である以上、現在の日本における速報値の作り方の問題点や計測誤差の改善方法について、もっと突っ込んだ分析がなされるべきではないかとの意見もあった。

◇教育効果分析と教育政策

 次に、結果的には授賞には至らなかったが、最後まで候補に残ったのが、中室牧子氏の『「学力」の経済学』である。海外では個人の行動や所得、能力を何十年にもわたって追跡したミクロ・パネルデータや実験データが作成され、これを使った教育効果分析の結果が教育政策に生かされている。これに対し、日本ではこうした研究はあまり行われていない。

 本書は、人々の関心の高い教育に関する数多くのテーマを取り上げ、直感や個人の体験に基づく判断がいかにいい加減であり、客観的に収集されたデータによる科学的根拠に基づいた判断が重要であることが示される。例えば、子どもは褒美で釣ってはいけないのか、褒めて育てたほうがよいのか、ゲームをすると暴力的になるのか、少人数教育に効果はあるのか、といった多くの人に常識的と思われている疑問が取り上げられ、内外の先行研究から予想に反した答えが紹介される。

 今後の研究の方向性を示した画期的な書物であると高い評価が与えられた一方、著者独自の研究成果が一部にとどまっているとの指摘があった。そのため、今後はそれらをさらに充実させた書物の誕生を期待したいとして、今回の授賞は見送られた。

◇東南アジアの構造改革

 最終審査に残ったもう一つの候補は、三重野文晴氏の『金融システム改革と東南アジア』であった。本書は東南アジア諸国における工業化過程の固有の展開を見ると、コーポレートガバナンスの強化を狙った金融改革と工業化との間に「乖離」が生じており、形成経路の観点に立ち、もっと資金需要側の視点に立った構造改革が求められていることを、現地調査や集計データ、企業ミクロデータを使って明らかにした骨太の力作である。

 ただ、惜しむらくは、最初に展開された著者自身の独自の視点が、その後の実証分析によって十分論証されたのかどうか疑問であり、書物としての一貫性に欠けるとの指摘を受けた。日本経済との関連について言及があれば、もっと面白くなったのではないか。

 このほか、複数の選考委員が阿部顕三著『貿易自由化の理念と現実』、上村敏之・足立泰美著『税と社会保障負担の経済分析』を候補作として挙げた。

 前者は、貿易自由化の功罪について、オーソドックスな国際貿易論の立場に立って、冷静かつ客観的に論じたバランスの取れた啓蒙書である。現在のような時代でこそ改めてこの問題を考えるのに絶好の書物であるが、独自の視点を示したオリジナルな貢献は限定的であるとされた。

 これに対し、後者は社会保障と税の一体改革を巡る研究書である。個別の制度の抱える問題について詳細な分析が行われ、最後に負担増、歳出抑制、経済成長のいずれもが必要であると主張されるが、個別専門論文の収集にとどまっているとの感が拭い切れず、政策的含意が細かい一方、全体としてもっと日本財政や日本経済との関連について包括的に議論されるべきだとの指摘があった。


◇エコノミスト賞選考委員

委員長 樋口美雄(慶応義塾大学教授)

委員  井堀利宏(政策研究大学院大学教授)

    深尾京司(一橋大学教授)

    三野和雄(京都大学客員教授)

    福田慎一(東京大学教授)

    金山隆一(『週刊エコノミスト』編集長)